建築とまちづくり2023年11月号(NO.535)

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目次

<目次>

特集
団地再生

泉 宏佳
持続する団地への再生にむけて

中島 明子
六番池シリーズ
茨城県営水戸会神原団地の危機と再生

石原 重治
都営住宅の現状と団地再生(建替え)の課題

清原 正人
京都市養正のまちづくり

岡本 祥浩
外国人居住と公的住宅団地の持続性

連載
「居住福祉」の諸相〈10〉
地域・団地の再生
岡本 祥浩

構造の楽しみ〈7〉
離れているけど、くっついている
~分節と統合~
松島 洋介

私のまちの隠れた名建築〈21〉
四つ手網小屋群
岡山県岡山市
亀谷 典弘

主張
「丁寧な説明」を聞きたいのではない、対話がしたいのだ。
岡田 昭人

研究会だより
子ども環境研究会第9回報告 ひこばえコミュニティー館
目黒 悦子

新建のひろば
東京支部――関東大震災から100年の今 関東大震災遺構 墨田・江東区散歩
京都支部――沖縄に暮らし、つくってきた建築空間「私の建築感」報告
東京支部・設計協同フォーラム――「高橋偉之さんを偲ぶ会」

<主張> 「丁寧な説明」を聞きたいのではない、対話がしたいのだ。

岡田昭人 住まい・まちづくりデザインワークス/全国幹事会副議長

 最近よく「丁寧な説明」という言葉を耳にします。私たちは、長々と同じことを繰り返して、結局相手にはなにも伝わらない、お為ごかしの「丁寧な説明」を聞きたいのではありません。継続的に対話をし、対話によって解決の方向性を共にさぐることをしたいのです。
 一方、コモンという言葉や概念も広がっています。社会的に人々に共有される場所や資産、あるいは人々との関係などを含め社会的共通資本とも言い換えられるものですが、これからの地域社会を構築していく上で大事なことだと思っています。この活動を進めていくには、対話をしていくことが不可欠ですが、説明をしたからよし、とするものとは相容れないのは自明です。また、対話をするには人が集まる「場所」が必要です。近年のソーシャルメディアやウェブ会議による「場所」も活用されて、コロナ禍においては特に移動による時間やお金の節約など一定の効果がありました。ただこのバーチャルな「場所」は、社会インフラと呼ぶには対話の場としてはいささか心許ない、パワーが足りないと感じています。だからこそ、これまであった集まる場所としての物理的空間の意味が問い直されているのだと思います。全国で取り組まれている地域の居場所づくりは、まさに地域のコモンを再生、構築する活動です。こども食堂は、貧困のこどもたちへの食事提供だけでなく、食事を通じて顔をみながら地域での関係をつくっていくという展開を通じて、全国で7000箇所を超えました。誰もがアクセスできるオープンで民主主義的な場所であるリアルな空間には、いまだバーチャル空間は及びません。
 さらに、近年のまちづくりは、これまでの施設の配備や土地利用の改変など 「つくる計画」として都市レベルのものを、行政が主体となってトップダウンで行われてきたものから、限りある資源を有効に活用して新たな価値をつくりだすことを想定した「つかう計画」として、街区レベルの、身近なまちを暮らしやすく親しみのある場所にしていくことに転換し、 NPOや市民団体など地域をよく知る住民がまちづくりの担い手となりつつあります。
 (東京では、世界都市の再生を目論む都市開発と同時進行していることはご承知のとおりです。)
 マスタープランや到達目標を定めてゴールをめざす20世紀型の都市計画・まちづくりから、現状に即しながら現実的な対応によって地域の資産を積み上げていくという、これからのまちづくりの萌芽が各地で見えてきました。まさに市民によるコモンづくりが始まっています。
 それでは、今後まちづくりの担い手が行政やプランナーなどの専門家から、コモンづくりに共感し、実践する市民に移っていくとすると、私たち建築技術者や専門家は、これからなにをすればいいのでしょうか?
 まちづくりは「どう生きるのか」の体験をデザインすることであるような気がしています。それは地域の施設や住まいづくり、アーバンデザイン、景観、人と人との関係づくり、各自の主体性をつくっていくプロセス、こうしたいという想いを実現していく多様で魅力的なアクティビティなどを包含する、地域での包摂的な生き方のデザインです。それは多様な人々との対話と体験からしか獲得できないのではないかと思います。
 居場所づくりなどの個別の「場所」づくりだけではなく、地域に価値があることを対話を通して確認するプロセスに関わることにこれからの職能の発展の展望があり、この取り組みによって空間の質も高められていくことになるのだと思います。地域それぞれの状況に対応して、これからの地域社会のありようをイメージし、それを実現するために、さまざまな人や組織や専門家と連携することが求められています。
 新建の第三十四回大会議案書にある全体の方針は、これからの建築技術者としての職能をも包含した活動の方向性を問い、継続した議論と実践を積み重ねていこうとの呼びかけでもあるのだと思います。多くの専門家や市民とおおいに対話をしていきましょう。

<特集> 団地再生

戦後の高度経済成長を支えてきた団地やニュータウンなど計画的に開発されてきた住宅地は、当時の最大の需要層であるいわゆる核家族(夫婦と子ども)居住を想定し、近隣住区、隣棟間隔、歩車分離、コモングリーンなど欧米の計画理論や設計手法を取り入れ、とりわけ近隣コミュニティ形成を意識して計画されたゆとりのある良質な住環境の団地が多い。
 住宅については、当初は「住宅難の解消」(420万戸の住宅不足)が住宅政策の目標であったため、いわゆる「ウサギ小屋」といわれる狭小住宅が多かった。1970年代後半以降は、住宅総数が世帯総数を上回り「量の確保から質の向上」へと政策が転換され、居住水準や住環境水準の目標が設定された。増築、2戸1住宅化や建替えなどによる住戸面積の拡大や住環境の向上が図られ、定住化がすすんできた。
 こうした団地もすでに半世紀を迎え、建物の老朽化や空き家の増加に加え、入居者の高齢化や単身・2人世帯などの小規模化、生活スタイルの多様化、外国人居住の増加などを要因としたコミュニティの衰退など、ハード、ソフト両面にわたって課題が顕在化し、団地の持続性が懸念されるものも少なくない。建設当時とは社会環境が大きく異なるなかで、どのように対応しようとしているのか。団地により取り組み方法はさまざまであるが、キーワードは「コモン、コミュニティ再生」「住民参加、プロセス重視」のようである。現在抱えている課題や再生に向けた取り組みを検証しながら、今後の団地再生のあるべき姿、再生理論、再生技術、再生手法を探求していきたい。

担当編集委員/三宅毅、古川学

<ひろば>  東京支部―関東大震災から100年の今 関東大震災遺構 墨田・江東区散歩

関東大震災から100年が経ちました。9月3日(日)に新建東京支部主催で遺構を中心に、墨田区と江東区の資料館などを見学しながら、まち歩きをしました。
 今回の企画は、9月12日(火)に新建も加盟団体の災害被災者支援と災害対策改善を求める東京連絡会(略称:東京災対連)などが主催する「自然現象を災害にさせない 関東大震災100年記念連続シンポジウム」で「首都直下地震に備える」をテーマに東京大学名誉教授の平田直氏よりお話を聴く取り組みとあわせて、その前に関東大震災がどのような自然現象で、人と社会に対してどのような被害をもたらしたのか、とりわけ被害が大きかった当時の東京市の中心であった下町を散策しながら、今後の防災につなげることを目的に開催しました。
 参加者は東京支部から7名、千葉支部1名、神奈川支部1名、会員でない方が5名の14名になりました。
 都立横網町公園の「東京都復興記念会館」に10時に集合し会館の中を見学した後、道案内人の丸谷博男さん(支部代表幹事)からレクチャーを受けた後、スタートしました。天候に恵まれ、夏日に長時間歩くのはかなり大変な陽気でした。

墨田・江東区散歩コース
 東京都復興記念館→清澄庭園・大正記念館→江東区清澄の旧東京市営店舗向住宅(復興事業の一環として東京都が1928年に建設した店舗付住宅)→深川図書館→深川江戸資料館→同潤会清砂通りアパート跡地→関東大震災復興小公園(元加賀公園)壁泉のモニュメント→最後は富岡八幡宮でお疲れ様の記念撮影。

関東大震災とはどのような自然現象で被害はどうだったのか
 関東大震災は、1923年9月1日11時58分に発生しました。震源は神奈川県の相模湾、神奈川県全域・房総半島の揺れは大きく震度7・6強の地域が多くありました。死者・行方不明者は約10万5千人に上り、日本の歴史上、最悪の人的被害を出した自然災害です。
 地震による犠牲者は1万1千人でしたが火災による犠牲者は9万2千人におよび、死者・行方不明者の9割近くが火災によるものだったそうです。原因は昼時の激震により、かまどや七輪に火をおこして、昼食の支度をしている家が多く、火が倒れた家などに燃え移り、また、玉川上水から切り替えた新水路が崩壊したことで水が出なかったこと、東京の下町は道幅の狭いところに木造住宅が密集している場所が多かったこと、江戸時代は災害時に使用が許されなかった大八車などで空き地や道路などが渋滞し動きが取れなかったことが被害を広げました。たくさんの人が避難していた東京・両国駅近くの陸軍の工場跡の空き地では、火災旋風が起こり、ここだけで約3万8千人が亡くなったそうです。
 9月1日は防災の日と定められ、特に今年は震災から100年にあたり、新聞やテレビでも取り上げられました。朝日新聞は「大震災と名づけられた地震災害はほかに1995年の阪神・淡路大震災と2011年の東日本大震災があります。阪神・淡路大震災では死者・行方不明者が約6400人、東日本大震災は約2万2千人です。このふたつの大震災と比べても関東大震災の死者・行方不明者がとびぬけて多いことがわかります」と報じられていました。

流言飛語、デマによる被害と公的機関の関与
 当時、朝鮮半島(今の韓国と北朝鮮)は日本の植民地であり、日本本土に来て働く朝鮮の人もいました。大震災の混乱で「朝鮮人や社会主義者が井戸に毒を入れている」などというデマが流れました。それを信じた自警団などが朝鮮人や中国人や日本人を殺傷した事件が各地で発生しています。
 出来事が大きく、深刻かつ重大であると同時に、事実関係があいまいであることにより、デマは生まれやすく広がりやすいそうです。大震災は人々の不安心理がデマを生み、デマが瞬く間に広かったと言えます。デマやヘイトスピーチが広がることによる恐怖を感じました。正しい情報をどのように伝え、また冷静な判断ができる環境をつくっていくシステムが大切なことを知りました。

体験学習会と交流の時間に
 「関東大震災遺構 墨田・江東区散歩」は地域を知る機会になりました。それぞれが住む地域、働く地域をあらためて見直すことの必要性も感じました。100年の時を経て、過去の教訓を今につなげて「防災力」を高めたいです。とても良い体験学習会と交流の時間になりました。 (東京支部・山下千佳)

<ひろば>京都支部―沖縄に暮らし、つくってきた建築空間「私の建築感」報告

沖縄在住の京都支部会員、清水肇さんとともに、京都で開催された建築学会にこられていた沖縄の根路銘安史さんをお招きして、京都支部企画で話をうかがいました。9月13日に開催し、参加者は会場参加13人+オンライン2人の合計15人でした。
 根路銘さんは、沖縄で地域に根差した住宅設計や、建築に関わる活動をしておられます。「沖縄で建築をするには、京都のように古い建物が残っているわけでもなく、なにを根拠に建物を設計していけばいいかが難しいんです」。沖縄の海や街の風景写真とともに、お話がはじまりました。根路銘さんは、まず、ルーツを探してみることから始めて沖縄の環境と建築的な歴史について深掘りしていった、その中で石造文化についての研究書にいきあたったと言われていました。仕事の中でも、湧水の場所の復元の仕事をされています。フェンスやトタン屋根などで雑に覆われていたところを、余計なものは取り払い、石垣で造られた当時の状態に戻すことで昔の風景を取り戻されています。その形を再生するための調査の際に、地域の人たちにヒアリングを行って昔の様子を確認されたそうです。
 次に沖縄の街の変容について話されました。戦争で戦場となったことと、アメリカの占領という事実が沖縄の建築の歴史にとっても外せない事柄です。歴史や文化の大きな分断であり、大切なものが喪失してしまったのだなと話を聞いて強く感じました。普天間基地のすぐそばで設計された住宅の写真には、建物の向こうに広い滑走路とオスプレイの姿が写っていて衝撃的でした。先祖代々住み続けていた場所が基地となり、その周辺に住まなければならなかった現実がここにあるのだなと思いました。そして「生命と財産を守るための建築である」という言葉が強く心にささりました。
 ここから少し話が代わって、建築士会の支部長になられて取り組まれた企画のお話で。DOCOMOMO100選に選ばれた聖クララ教会でクラッシックコンサートを開かれたり、那覇市民会館の保存運動として、その建物で展覧会を企画したり、たくさんの人をまきこんで活動をされていました。那覇市民会館は建設当時のコンクリートの不良で(海砂が使われている)劣化が激しく、補修しても再劣化するという悪循環の問題を抱えていることから解体されることに決まるのですが、そこから1970年ごろの沖縄のコンクリートの品質や、塩害についての話になりました。沖縄ではRC造が主流であること、塩害がいかに厳しい条件であるかということ、根路銘さんの設計監理するRC造は高炉セメントを使用していて材料の調達から施工に関してもいろいろなご苦労をされていることなど、技術的な話も入り口だけですが話していただきました。最近、修繕や維持管理に興味のある私にとって大変興味深い内容でした。
 最後に、築70年の木造2階建ての元薬局だった建物を当初の外観に復元し、ギャラリーとして利用されている「あおみどりの木」の紹介です。建物を復元するために当時を知る人に話を聞いたり資料を集めたり、施主の娘さんと一緒に調査しながら復元されたそうです。改変されていたので仕上げを剥がしていくと、家族の記憶や人々の暮らしの記憶がよみがえってくる。建物を復元することで歴史も復元されていって、記憶もつながり、建物と記憶が一緒に残っていく。そんな事例でした。風景や建築が人の記憶をつないでいくというのは最初の湧水の復元の仕事と根底が同じだと思いました。
 根路銘さんの報告を聞き、私の沖縄に対する興味が一段と増して沖縄に行きたくなりました。報告会のあとの交流会(飲み会)も、たのしい時間になりました。 (京都支部・南知香子)

<ひろば>東京支部・設計協同フォーラム―「高橋偉之さんを偲ぶ会」

 3月16日、90歳で他界された高橋偉之さんの人生や思い出を振り返り、私たちが次の世代につなぐことなどを語りあう場として、9月29日「高橋偉之さんを偲ぶ会」をフランク・ロイド・ライトが設計した自由学園明日館2階食堂で開催しました。主催は新建東京支部と1994年に東京・神奈川・千葉・埼玉・群馬・茨城にいた新建会員で設立し、その代表を長年務めていた設計協同フォーラムがおこないました。
 参加者は26人、神奈川支部3人、東京支部17人、会員でない方6人、遠くは神戸からいらしてくださいました。
 はじめに千代崎一夫さんがあいさつをしました。その後、丸谷博男さんが町田市の浮輪寮に育った竹でつくった花器にチェロの演奏が流れるなかで献花をし、そして黙祷をしました。
 続いて、8年間いっしょに住まわれていた高橋陽子さん(偉之さんの妹さん)からの写真や持ち寄った写真でつくったスライドを上映しました。
 珈琲と紅茶で歓談後に参加者より思い出を語ってもらいました。丸谷さんは明日館の説明をした後で「建築人に高橋偉之さんが残したもの、それは『社会とともに生きてほしい』と……」と話しました。
 江原望さん(日本フィルハーモニー交響楽団)が1928年につくられたチェロで、シューマン「トロイメライ」、オリジナル曲「空へ レクイエム」、カザルス「鳥の歌」、シューベルト「アベマリア」を演奏しました。100年を越す歴史ある木造の建物の空間に心地よい音が響き渡りました。
 終演のあいさつは高本明生さんがおこないました。そして、最後に高橋陽子さん「兄も喜んでいると思います」というご挨拶をいただきました。
 配布した「しおり」には、高橋さんの日々の生活気持ちを詠んだ俳句や短歌も紹介しました。
 題詠「紅葉」 特養の竣工間近か紅葉散るかの日を出勤最後の日とす
 〈背景〉何十年も前の話です。私は建築設計監理の仕事をしていました。定年というのはありませんが、七十歳も半ばとなるともう体が動きません。秋、紅葉の時期に竣工を迎える老人ホームを最後の仕事とすることにしました。
 題詠「秋の果物」 木守柿ひとつ残りて戦争は絶対にダメとの想い深まる
 〈背景〉二十数年前、俳句に接するようになって、柿の木の天辺あたりに後から鳥のためにいくつかを残しておいてやろうと考えて残された柿の木守柿と呼ぶと知った。その後その存在がなぜか気にかかって八月十五日終戦記念日、八月六日・九日広島、長崎原爆被爆の日になどと同時に、戦争は絶対反対の気持ちを深く感じるようになってきた。今はロシア・ウクライナの戦争を一日も早く終わらせたいという気持ちがますます深まっている。(東京支部・山下千佳)

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