2003〜4年主張

 


主張 (建築とまちづくり2004年3月号

京都市長選挙を振り返って

久永雅敏
新建築家技術者集団全国常任幹事企業組合 もえぎ設計

 さる2月8日、京都市長選挙が行われました。ご承知の方も多いと思います。新建京都支部の会員でもある前府立大学学長の広原盛明さんが、市民派市長候補として奮闘されましたが、残念ながら勝利することができませんでした。以下、「主張」にはふさわしくないかもしれませんが、現地からのレポートと私の思いです。 広原さんが立候補にあたって発表された京都論・まちづくり論は、まさに新建のめざす運動の方向に一致しているではないかと共感した私たちは、京都支部の有志を中心に「はらっぱの会」という応援団を結成し、勝手連として活動してきました。選挙の応援ははじめてという人も含めて、知人友人に呼びかけるだけでなく、演説会や選挙カーの弁士をかってでたり、ビラまきやメガホン隊、電話作戦、そしてマニフェストづくりへの参加等々、取り組みは多彩をきわめました。とりわけ、京都のまちづくりに寄せる私たちの思いを綴ったパンフレットの作成と配布は大きな力を発揮したと思います。全国の著名な研究者やコンサルタント、建築家が名を連ねた「京都が好きでした」という新聞の意見広告、最終盤の他支部からの有志の応援も運動を勇気づけてくれました。京都のまちの現状への怒りと、市政を市民の手に取り戻すぞというワクワクするような気持ちに突き動かされた、あっという間の2カ月半でした。 私は今回の京都市長選挙には二つの意義があったと思っています。 一つは市民派市長の実現をめざしたことです。広原さんは、候補者として推薦され、政策(市民マニフェスト)をつくり、選挙戦を戦うまでのすべての過程で、賛同する市民、団体、政党との協働を貫きました。市長は市民が選ぶ市民の代表である以上当然のことです。市民の願いとはほど遠い政党や団体の組み合わせによる、しがらみに満ちた首長選びに終止符を打つビッグチャンスだったわけです。 もう一つはまちづくりが大きな争点になったということです。時代遅れの高速道路建設が着々と進行し、まち中にはバブルの時期をはるかにしのぐ数の高層マンションが林立しつづける歴史都市京都の現状は、京都の建築やまちにかかわってきた私たちにとって、黙って見過ごすことのできない問題であり、まちづくりのあり方を市民に訴える絶好の機会でした。同時に、私たち自身がまちづくりの意味をより深く学ぶ機会でもありました。 しかし、結果は真摯に受け止めざるを得ません。特に38・58%という低投票率が物語っている無関心層の多さが、私たちを悩ませます。相手陣営の徹底した無風戦術もあります。私たちの訴えに深くうなずいてくれた多くの市民が、今度は周りの人をうなずかせてくれるような運動の広がりをどうつくっていったらよいのか。その辺りにキーポイントがあるのでしょう。 住民が主人公の政治、暮らしに根ざしたまちづくり、まさに新建活動の延長線上にある重要な課題です。戦いはまだまだ続きます。


主張 (建築とまちづくり2004年2月号

障害者施設に対する予算削減を考える

星厚裕
新建築家技術者集団全国常任幹事 アート建築構造設計事務所

 きょうされんの第7回施設経営管理者研修会「障害者施設制度の未来を探る」に参加した。 シンポジウムでの川崎医療福祉大学学長岡田喜篤氏の話を聞いてびっくりした。氏によると、政府は日本における知的障害者の数を43万人(最近修正して四五万五〇〇〇人)と発表しているが、実際には200万人以上はいるはずであるという。ヨーロッパの先進国では知的障害者は人口の1.5~2.0%と発表、アメリカでは1・0%、ほかに「学習障害」として分けている。日本では0.36%と発表(行政が把握している人のみをカウント)しているが、日本民族のみが少ないことは考えられないので、世界の水準になおして考慮すると200万人ぐらいになるという。現在では、そのうち12万人が入所施設に入っている。最近修正されたのは支援費制度になって名をあげてきたからである。政府の政策として、今後は入所施設はつくらないといっているが、グループホーム、通勤寮、生活寮では200万人の「住まい」を考えると圧倒的に足りないのである。さらに、高齢になったらどこに住むのか? やはり、入所施設しかない。「住まい」としての入所施設が必要ということで、大いにうなずける話であった。 しかし、現在の障害者の入所施設の基準は老人のそれに対して比較にならないほど貧弱であり、「住まい」というにはほど遠い水準にある。また補助金も老人のそれとは大差がある。これではやはり「施設」になってしまう。 それでも、数は少ないががんばって「住まい」をつくっている法人もあり、施設づくりの参考になっている。 現在、工事が着工したばかりの障害者通所授産施設の仕事をしている。昨今の不景気の影響で、国の予算も苦しいとの理由で、施設建設の申込時の補助金額が本申請の直前に減額になった。寄付の申込額と医療公庫の借り入れ額を増やし、設計も変更して、やっと認可になり着工にこぎ着けたのだが、昨年の年末に備品、設備整備の補助金の減額を通告してきた。年が明けて減額の金額が確定したが、これでは予定の備品や授産設備の機械が購入できなくなり、建物の機能が発揮できなくなってしまう。施設建設の趣旨や通所授産施設の意味をも曲げてしまうような予算削減である。 別な法人では、グループホームだけでは障害の仲間たちを受け止めきれないと入所厚生施設を検討しているが、今年に入って、予算がとれないので新規の受付はしないとの話がではじめた。海外派兵に予算をとられるからということらしい。日本での200万人の知的障害者の「住まい」をどうするのかとびっくりして帰ってきた矢先のこともあり、これはどこかが間違っている、そう思わずにはいられない。そして、日本国民の、ましてや弱者である障害者の「住まい」をも奪ってしまう、さらには通所施設の建設趣旨を曲げるような予算削減をしてまでの「海外派兵」には多いに疑問であり、反対せざるを得ない。


主張 (建築とまちづくり2004年1月号

2004年初頭に思う

高橋偉之
新建築家技術者集団 全国常任幹事

 私たち「新建築家技術者集団」は、01年の大会で新しい「憲章」を確定し「国土を荒廃から守り、かつ環境破壊を許さず、人びとのねがう豊かな生活環境と高い文化を創造する」と掲げました。そして住み手・使い手や住民の主体性を高め、人びとと共にその要求の実現を追求し、豊かな創造活動を展開する新しい専門家像をめざして実践を重ねてきました。 昨年11月の第24回大会では、それらの活動をさらに旺盛にくりひろげ、「新建」を質量共に飛躍させることを全員で確認しました。 大会が終わって各地へもどった会員は、すぐに活動を始めています。 大会前から準備していた北海道支部の「丸谷ゼミ」では、それ以前の「三沢ゼミ」や「萩原ゼミ」から連続して参加されている会員外の方がたの中から「入会してもいいですよ」という声が出ているということです。 新潟支部では、会員があまりいない中越地域にも「新建」の名を知ってもらおうと、長岡市で「丸谷ゼミ」を開催し、初雪の中36名の参加者を得ました。終了後の懇談会で次回開催の話も出たとのことです。 岐阜支部では「増田さんの連続講座」(三重・愛知支部との共催)の最終回が行われ、富山支部では忘年会を兼ねて「住宅講座」(会員が講師)と「新建学校」(講師は本多代表幹事)が開かれました。 東京支部では、三沢代表幹事の「20世紀の近代建築を回顧する」連続ゼミを、東京土建と共催で行おうと決めて、準備を始めました。東京土建へは、今後の運動の協同・連帯を展望して、その挨拶も兼ねて訪問し、大変前向きの対応をいただきました。大会での特別決議Ⅱ――広く市民に開いた「建築とまちづくり展」を開こう――にも、幹部の方がたは大きな関心を寄せられました。土建渋谷支部の設計分会も賛同し、新年会での交流も提案されたとのことです。 特徴的なことのひとつは、今までより飛躍的な速さで、これらの情報が全国のメールグループで交換され、企画の成功をよろこび合い、全国の会員の一体感が感じられていることです。 建築界の最近の動きの中で私が関心をもったのは、11月末に開かれた「国民の住まいを守る全国連絡会」(住まい連)の集会です。 新建の大会での報告の中でもふれましたが「住宅の確保は市場原理で自助努力でしなさい、公営住宅も公団もこれ以上つくりません、住宅金融公庫の融資も民間市中銀行で」ということで、国としての住宅政策はなくなってしまうのでしょうか。住まいの権利をどう守り反撃するかは大きな問題です。 「新建」もこの「住まい連」の運動にもっとかかわらなくてはいけないと思います。 こんな風に建築界の動きを見ていると、「政策委員会」の強化はとても必要なことと思います。宮城支部からは政策委員の推薦がありました。こういう調子で、全国の会員内外から多くの知恵を集めたいと思うのです。 そのほか、さらに多様な活動を発展させること、異なった職域・世代間の交流や他団体との交流を広げること、支部活動を生き生きとすすめること、そして会員と読者をなんとしてもふやしたい、というたくさんの課題に楽しく工夫しながら取り組んでいきたい――新春にあたっての私の思いです。


主張 (建築とまちづくり2003年12月号

建築基準法改正を我々生活者の中に!

簑原信樹
新建築家技術者集団全国常任幹事 簑原アメニティデザイン

 我々、一般的な建築技術者は、日々の業務の中で多くの規制の下に活動を行っている。最も基本的なものは建築基準法であり、この法律の下、施行令・規則・告示等に沿ったものづくりに努めている。今日に至るまでの間において、大きくは大地震の発生とともに建築基準法が改正されてきた歴史がある。そのためもあってか、また、基準法の第一条に明記されている「最低の基準を定め」とある文章のためか、文字通りそのままの意味としての「目的」と捉えられていた。 産業の発達とともに、現在は、社会の中で生きていくために多くのストレスを体内に蓄積し、また、環境破壊的汚染とも共存しながら生きていかざるをえなくなってしまっている。特に都市生活環境の中では、より一段と自然に生きていくこと自体が難しい時代となっている。 これらのことを考慮してなのか、建築基準法においてもシックハウス対策の内容が盛り込まれ、すべての建築の室内環境汚染を防止するための換気が義務付けられた。日々の社会的要求(良い意味でも、悪い意味でも)に対し、建築基準法は少なからず変化しているのは事実である。しかしながらこの近年、あまりに多くの内容が変わり、我々建築技術者の側でも充分に理解できないままのことも多くなってきている。 一方では、欠陥住宅の発生も止まることなく、大手ハウスメーカーから地場の個人大工の建築に至るまで幅広く発生している。近年になって、この社会的問題の解決に対し、多くの弁護士と建築士の協同の取り組みにより、若干ながら、建築主サイドの主張による解決が図られるようになってきた。この解決が生まれるようになったのは、どのような契約形態であれ、建築基準法が建築物をつくる場合に技術者が守らなければならない最低の基準(法律)であることが、社会的認識として認められ始めたためである。 逆に言えば、建築基準法は技術者の倫理により守られたものであって、すべてを想定しているものでもなく、規定している部分でさえ完全な規定ではないのである。また、近代的なものの考え方の中で立法されたので、伝統的な技術などは切り捨てられている。今、改めて見直され始めてきた兆しはあるものの、遅ればせながらでの法律改正では、残せる伝統技術さえ消えてしまうかもしれない。幻の技術になってはいけないだろう。 さらには、今までの建築基準法で定めているのは、新しくつくる建築物としてのものづくりの技術としてである。しかしながら、時代はすでに新しいものをつくるだけの時代ではなく、ストック型の時代となっている。にもかかわらず、耐久性に関する法律的な整備は何もされておらず、学術的見地からの規準の範囲にとどまっている。時代はすでに大量のマンションストックを抱える中、耐久性の問題はすべて大規模修繕工事に取り込まれてしまい、どんな悪質な建築物をつくっても、業者を問いただす規準がない状況である。 施工者としての良識だけに頼るのではなく、また、技術者の倫理性に頼るだけでなく、建築物を規定する最低限の法律として基準法は、社会的要求の最低ラインを守り、ストック型の住宅性能としての規準を明示すべき時にきているのではないだろうか!


主張 (建築とまちづくり2003年11月号

新建理念の実践に努め自らの暮らしを切り開こう

水野久枝
新建築家技術者集団全国常任幹事 見浦建築設計事務所

 長引く大不況は、私たちの生活基盤を大きく揺るがせています。経済不況とともに、今起きている様々な社会不安は、個人の人間性を大きく歪め、結果として家族の関係や地域社会の秩序をも確立できない悪化を生んでいます。 物質の豊かさや個人の自由の尊重という一方で、大切な人間らしさを私たちは喪失してしまうような状況にあると思います。 国民としての義務を全うする強い意志と責任感。「社会環境が悪い」と言って放棄できない自らの暮らし。その構築を願いながらも、経済不況がもたらす様々な波紋は、私たちの日々の生活を圧迫し、人間関係にも大きな影を落としています。連日メディアから流れる心が痛む事件の報道。 私自身子どもの親となり20年あまり、自らの成長もおぼつかない状況に、「何を信じればよいのか」という気持ちです。我が子に対しては、「社会の一員として、人のために何かができる人間であってほしい」という思いを持ちつつも、こんな不確かな不安の時代をどう切り開いて、ともに成長していけるのかという戸惑いの気持ちを拭う事はできません。 子どもの教育、安定した雇用の実現、高齢社会への対応、社会福祉の整備など、今後の社会環境を整えるべき政治の場でも議論がなされていますが、その進んでいる方向が、生活者の視点に立っていると言えるのでしょうか。 「日本の再生」「構造改革」という名の下に、経済建て直しのための痛みを国民全体でというお題目。「本当にそうなのだろうか」。国際競争に打ち勝ち、経済大国と言われることが豊かさの指標であった日本経済。バブル経済を引き起こした投資家のツケを、なぜ多くの国民が痛みとして受け止めねばならないのか。私は大きな疑問を持ちます。国民の勤労意欲を抹殺するようなリストラや、これから社会に出ようとする若者が将来の希望を持って就職できない現実。私は将来に展望が持てない今の社会状況を打破し、生き甲斐の持てる活力ある人間社会へと構築していく姿勢が最優先課題だと考えます。 人づくりができてこそ国の再生も実現できるのではないでしょうか。 私たちを取り巻く建築の分野においても、規制緩和の名の下に、「建築とまちづくり」を混迷させるような建築基準法の改正が次々とありました。一番身近なところでは、シックハウス対策の規制の導入もその一つです。現代社会における本来の建築物のあり方を考えるとき、化学物質を含む新建材をなるべく使用せず、自然素材を使用するという視点は理解できても、なぜ、自然素材を使っても建物に換気設備の設置が義務付けになったのでしょうか。健康な建物の原点が違うと言いたいのです。 矛盾だらけの社会状況に、私は今こそ自分を奮い立たせたい。 まもなく新建築家技術者集団第24回全国大会(静岡)が開催されます。全国の建築家・技術者の皆さんとの議論を深め、新建の理念に沿った行動に確信を持つことで自らを元気にし、新建のまわりにいる人々(住み手、住み手・使い手の立場にたっている多くの建築家技術者)とともに、元気印の取り組みを丁寧に進めてさらに前進させたい。 新建の30年の蓄積を踏まえ、それぞれが実践することが、この不安の時代を切り開いていく大きな力となり、社会の環境を良い方向に変えていく運動に発展すると確信します。


主張 (建築とまちづくり2003年10月号

技術こそ「民活」が本質

丸谷博男
新建築家技術者集団全国常任幹事 エーアンドエーセントラル

 今年の7月から施行されたいわゆるシックハウス法。技術の上意下達に対し多くの設計者が憤りを感じていることと思います。 高気密高断熱住宅をつくってきた技術者にとっては、せっかく精密な施行によってつくり上げた各部屋に大きな穴を開けられてしまうことになりますし、わたくしのようなOMソーラーシステムを活用してきた人間には、余計で異質の背景を持つ技術を押しつけられているようで、どうにも納得がいきません。 住宅金融公庫の仕様規定が、日本の木造住宅が長い年月を経て築きあげてきた多様な技術を、全国一律の狭い技術に退化させてしまったように、今回の技術のお仕着せは、やはり住宅の技術を浅薄で一様なものにしてしまうのではないかと心配しています。 技術というものに対する見方が根本的に間違っているように思うのです。思い切って言ってしまうと、仕様規定の問題点は技術の暴力であり、進歩と発展の天敵なのです。   ★ ★ ★ ただ、今回の法改正で一つだけいいことがあります。それは、換気の実体を設計者が確認することになったことです。とはいえ、何処まで空気の流れをデザインしているかは心許ないですが。 もともと、24時間換気なるものについて、わたくしは大変疑問に思っていました。というのは、換気扇の風量で室内の気積を割り、時間何回換気といっているだけだからです。これはただの計算に過ぎません。実際に部屋の空気がそのように交換されているなんて考えられないからです。 川の流れを見ているとそのことが一番よく理解できます。抵抗の少ないところが早く流れ、抵抗の多いところはよどんでいるのです。部屋の空気も同じです。給気口と排気口があれば、それを直線で結んだところが一番抵抗が少ないわけで、人間が期待するように空気は寄り道をしません。ということは部屋の隅の空気は滞っていることになるのです。カビが生えたり、ダニが繁殖するのもこういう隅なのです。 そうした現実がデザインされず、ただのもくろみ計算で確認申請が行われるとすると、誰のための基準法なのか、まるで理解できなくなるのです。役所も設計者もどっちもどっちということなのです。 本来であれば、面で吹き出し、面で排気するのが機械換気の理想です。そうでなければ、給気の方向を動かすとか、風速を変化させるとかの工夫が必要となります。自然換気はこれができているのですから。   ★ ★ ★ 今の建築基準法は、民間の自由な技術発展に対して後ろ向きであり、技術の後退をもたらしている。このように評価する以外、何とも言いようがありません。大切なのは、実体を調査し、評価し、問題点を明らかにすることです。そしてつぎに大切なことは、その問題点に対する解決法を一研究者として提案することであり、謙虚に民間技術者からの批判を仰ぐことです。けしてお仕着せはいけません。そのお仕着せをしているのが今の基準法です。なにやら根本が違っているのです。あまりにも視野が狭すぎるのです。


主張 (建築とまちづくり2003年9月号

住み手の主体性を守ること

山本厚生
新建築家技術者集団全国常任幹事 生活建築研究所

 富山県で「とやまの木の家」設計コンペがあり、7月13日(日)にその公開審査が行われた。私が特に注目したのは、まず建て主を公募で決め、その家族の詳しい希望と現実の条件が提起され、選ばれた案の設計者が実際の家づくりにかかわるという内容だった。 新建富山支部の会員も9人のグループを組んで応募した。一次審査では優秀案が3点に絞られ、新建グループの案もそこにあった。「一次審査会概要」によると、新建グループ案は建て主を含む5票を集めてトップだったと報告されている。ところが、残念ながら13日の二次審査では、この案は最優秀賞には選ばれなかった。しかし、の経過を聞き、優秀案3点を見くらべて、私はあらためて、これは問題だと思った。 問題のひとつは、実施設計者が審査委員全員(建て主もその一員)の無記名投票で選ばれたことである。これでは建て主は、多数の判断によって自分の家の設計案と設計者が決められ、押しつけられることになりうる。応募要項には「建て主が取りやめることもできる」と書かれているが、勇気がいると思う。建て主=住み手の主体性を守り、高めることがいかに大切かを痛感した。   ★ ★ ★  そこで、住まいづくりで「住み手主体を貫く」とはどういうことかを考えてみた。 第一に、住む人が自分らしく生きようとする意欲を高め、自分たちの望む生活要求をしっかり持てるようにしていくことであろう。そして、その実現が住まいづくりの目的であり、住まいが住む人の生き方の表現となるように、一貫して追及されることだと思う。 第二は、住む人が住まいづくりの過程と内容をよく分かるようにしていくことであろう。それは、決して断片的な知識の詰め込みではなく、自分たちの住まいにとって何が必要か不要かを考え、的確に判断できるようにするためである。 第三は、住まいづくりの場面ごとに、住む人たちが参加できるようにしていくことだと思う。デザインや作業にも参加し、意見やアイデアが活かされ、体験し実感するなかで、一人ひとりの生き方や家族のあり方を新しい段階に高めることだ。 そして第四に、住む人が住まいづくりのすべてを決定する権利と責任を持つという自覚を強めていくことである。富山のコンペではこれも軽視されてしまった。   ★ ★ ★  私が問題だと考えたもうひとつの理由は、私なら決してその最優秀案を上位に選ぶことはないと思ったことだ。この誌面では図示したり詳しく説明したりはできないが、デザインのあり方として強く感じたことだけを書いてみる。 それは、図面のどの部分を見つめても、この家族がそこで生き生きと過ごしている様子がイメージとして浮かんでこないことだ。 建て主は、みごとに自分たちの家族の特徴ある生き方を設計条件で示していた。共働きを大切にし、慌ただしく帰宅しても子どもたちと心を通わせ、ものづくりや観察や家庭菜園に熱中し、本やおもちゃが溢れ、友人が多くて活気があり、家中を見渡せる台所も時には仕切りたい等々、限られた言葉からもその暮らしぶりを十分に想像することができた。 ところがこの案では、一般的な良い家の要素に建て主の要求の一部を加えたコンセプトを形にしただけで、この家族らしい生活場面を辿って創ってきた跡が少しも見えない。 デザインしたり評価したりするときには常に、そこで生きる人びとの実際の生活を重ね合わせて追求すべきだと、私は強調したい。 新建の会員たちが既に各地で、その姿勢を崩さず、豊かな生活環境の創造を実行していることを、今こそ広くアピールしよう。


主張 (建築とまちづくり2003年8月号

CPDと専攻建築士制度のもたらすもの

今村彰宏
新建築家技術者集団全国常任幹事 ナベタ建築設計事務所

 03年度から日本建築士会連合会は、CPD(継続的能力開発)制度と専攻建築士制度の登録と認定を開始しました。 CPD制度とは、建築士の継続的能力開発の実績を建築士会が証明・登録し、社会へ明示するもの、専攻建築士制度とは、建築士の専攻(専門)領域を同じく士会が認定・登録・明示するものとなっています。その目的は、日本建築士会連合会が、建築士に付託された社会的責務を全うするために必要な継続能力開発、同時に建築士が技術的に責任を持つ専攻領域および専門分野に見合う能力開発の内容を社会に明示することとなっています。 制度ができた背景には、国内問題と国際化問題があります。国内問題の第一は、規制緩和として05年度には5年ごとの建築士指定講習が廃止されること。第二は、消費者保護のための情報開示(CPDや専攻建築士がホームページで知らされます)。第三は、改正建築基準法の性能規定化。第四は、建築技術者教育のJABEE(技術教育認定機構)。 国際化問題の第一は、専門家サービスの流動化促進(WTO)。第二は、国際資格の創設ADECエンジニアとAPECアーキテクト。第三は、UIAの動向(建築家業務の推奨基準)。第四は、建築家教育の国際基準の動向等です。さらに、昨年開始された日本建築家協会のCPD制度の影響も考えられます。 CPD制度は、「実務における能力開発」として年間14単位程度、5年間で70単位程度と、「研修による能力開発」として年間36単位程度、5年間で180単位程度の、二つの能力開発で5年ごとに更新される制度です。 専攻建築士制度による分野は、今年2月の発表では、統括・構造・環境設備・建築生産・行政・棟梁の六つでしたが、4月の発表で、まちづくり・設計・構造・環境設備・生産・法令・棟梁の七つとなりました。それぞれの専攻建築士ごとにCPDの実務実績の内容が違い、5年ごとに更新となります。 詳細内容は少しずつ具体化されていくとのことですが、問題点がいくつかあります。 第一は、国際資格と各専攻建築士の関係です。七つの専攻建築士がすべて国際資格になるとは考えられません。 第二は、建築士会認定の「専攻建築士」と国家資格の「建築士」の区別が、国民にわかりにくくなることです。建築士会認定の「専攻建築士」は、ホームページで紹介されます。国民の中で、国家資格の「建築士」より、建築士会認定の「専攻建築士」が上位の資格と勘違いされる危険があります。最新の情報では、国土交通省も、日本建築家協会認定の「建築家」という呼称は良いが、建築士会認定の「専攻建築士」という呼称は、国家資格の「建築士」とまぎらわしいので検討が必要との意向です。 第三は、CPDの「実務における能力開発」の内容が、建築士資格を持った一部の建築士に該当しないことです。つまり、専攻建築士として認定を取りたいと思っても、取得できない建築士がいるのです。 第四は、CPDの緩和規定(案)です。緩和規定では、建築士資格取得後、30年を超える「専攻建築士」には、法改正などの必要なCPDを義務づけることで、単位の緩和をすることできる、となっています。 これらの制度は、今のままでは建築とまちづくりを良い方向に変えることができるものとは考えられません。また、一部の建築技術者のための制度となるように考えられます。本来的に重視すべき職能論が、資格中心で議論されるようになりかねません。 日本建築士会連合会では、詳細内容の具体化は会員の意見を聞きながら進めたいとの意向です。一人一人の建築士にとって、重要な問題として、制度を理解し、意見を出していきましょう。


主張 (建築とまちづくり2003年7月号

超高層住宅ブームへの疑問

片方信也
新建築家技術者集団全国常任幹事 日本福祉大学教授

 都市再生法による「緊急整備地域」の計画が各地で進められている。例えば大阪の守口市大日地域では、サンヨー工場跡地を中心とする面積80haでツインの超高層集合住宅の建設、駅前広場の整備、周辺の密集市街地の整備などが計画されている。これまでも六本木ヒルズなど超高層マンションを含む複合的開発が、首都圏を中心に進められている。超高層住宅はすでに過剰ぎみであるとの批判をよそに、建築・都市計画の規制緩和による開発の巨大化が各地に広げられようとしている。
 都市基盤整備公団の超高層住宅に関する居住者の評価(井岡和朗「超高層住宅を考える」『都市住宅学』二〇〇三年第41号)では、「駅に近い」「眺望が良い」「周辺の環境が良い」などが多い。「総合評価」を聞いているデータでは、これも半数近い人が満足しているという結果を示している。「隣近所との付き合い関係」の満足程度は6割が「どちらとも言えない」と答えており、明確な判断はしていないという特徴があらわれている。
 ある35階に住む人の居住体験レポートでは、子どもが小さい間は住めそうだが子育てをここで長く続けようとは思っていない。時には新鮮な気持ちで景色を眺められ、この高さでは虫も飛んでこないので網戸は不要である。建築的な特徴に関しては、非開放廊下で住戸に窓がないので生活感を感じない。また、近所の人との立ち話をするという雰囲気はない。立派な集会所もあるが、あまり使用されていない。このレポートは統計的な意味は持っていないが、現在の超高層住宅居住者の特徴を鋭角的に表現している。
 この超高層住宅ブームは、「コンパクトシティ」を標榜するメガストラクチャーの建設を特徴とする。しかし、これは「職、住、遊」などの複合機能を持った「箱」を単独の開発プロジェクトのもとに寄せ集め積み重ねた構築物であって、都市ではない。都市とは、さまざまな建築や開発の主体、住み手、市民がかかわりあって発展する。美しい町並みや住み良い環境は、もろもろの開発をたがいに調整しあい、それらを財産として共有する社会の文化的産物である。ところが、メガストラクチャーの空間は人間同士の関係を「箱」という物と物との関係に置き換え、人々はその物的環境にますます強く影響を受けていくことを避けられない。
 また、巨大開発により都市のスカイラインが大きく変化している。スカイラインとは人間にとってもっとも近しい自然である空と人工の家並みの接点である。視線を水平に保って物を見る人間にとって、スカイラインは都市景観の重要な指標となるのである。ところが超高層建築が空に突出することによるスカイラインの混乱は、人間のこの認識を無力なものに変えつつある。先にみた住み手が評価する超高層階の「眺望」は、ゆがめられた都市景観のさもしい代償にすぎない。
 建築物の巨大化とそれに伴ってますます強くなる住戸の密室化が、住み手の日常的な生活感覚を麻痺させる危険も大きい。先の体験レポートは、非開放廊下に対して持つ住戸の閉鎖性が生活感を失わせていることをものがたっている。付き合いの満足度でどちらとも判断していない人が多いのは、近所付き合いを意識しにくい感覚が強くなっているからではないか。戸数が多すぎて日常的にはつながりをつかみにくいその集団が巨大構築物のかたちをとっていることが、人々のコミュニティ意識を阻害しているとも考えられる。コミュニティをつくりにくい環境では、子育て意識も萎縮せざるを得ないだろう。
 私たちはこのような生活感覚のいびつさに、さらに客観的な批判を加える必要があるとともに、どの地域でもコミュニティが身近に実感できる住み手参加の住まいづくり、まちづくりを進める必要がある。


主張 (建築とまちづくり2003年6月号

建築基準法28条「改正」はだれのためのものか

大槻博司
新建築家技術者集団全国常任幹事 F.P.空間設計舎

 建材から発散する化学物質を原因とする、様々なアレルギー症状が確認されるようになって十数年、『住まいの複合汚染』という衝撃的なタイトルの本が出版されてから約七年、最近は「シックスクール」という言葉まで現れている。その対策として昨年7月に建築基準法の一部が改正され、今年7月から施行される。
 一見、ようやくシックハウスの対策が法律的に講じられた、というように見えるが、果たして本当にそうだろうか。
 法律の内容は周知のとおりで詳細は割愛するが、要点は以下のようなことである。
(1)一定以上のホルムアルデヒド等を発散する建材の使用を禁止する。
(2)ホルムアルデヒド等の発散度合いに応じて使用する建材の面積を制限する。
(3)居室には原則として換気設備の設置を義務付ける。
 居室の種別やホルムアルデヒド等の発散建材の使用面積によって時間あたりの必要換気回数は変わるが、普通の住宅ではほぼすべて設置義務があるといってよい。免除されるのは15cm2/m2(床面積)の常時開放された開口部を設置した場合と、真壁造で外部の建具に隙間のある木製建具を用いたもの、となっている。前者は、たとえば三〇坪くらいの住宅であれば約一五個の10cm角の穴が常時開いている状態で、普通の生活では考えにくい。また、後者のような住宅が建てられる地域は限られているし、真壁造は別として、隙間のある建具を望む住まい手も多くはないであろう。
 そもそもこの法律は誰のためにつくられたのか。当然、住まい手の健康を守るためのはずである。ところが、一定程度のホルムアルデヒド等の発散建材の使用を認める、だから換気設備の設置を義務付ける、さらに、高気密高断熱によって冷暖房効率を高めなければならない、だから窓を開けるという単純な自然換気を事実上否定する――こういうのを本末転倒と表現しても、差し支えはないだろう。
 私たちは以前から、化学物質を含む新建材はなるべく使用せず、自然素材を使って住まいをつくろうと努力してきたし、それを望む住まい手も格段に増えてきている。そしてさらに進んで、地元の木で住まいをつくり、それを通じて日本の木を山を守ろうと運動をすすめている。本誌で『木の国日本』の特集シリーズを六回にわたって取り組んできたことは記憶に新しい。住まいをつくろうとする人々の意識が「新建材」ではなく「木」「土」「紙」などの自然素材を志向しつつあることは確かである。にもかかわらず、すべて自然素材でつくっても換気設備は必要なのである。根本的な矛盾があり、極言すれば大きな意味での地球環境保全の流れに逆行するものといえないか。換気扇のメーカーが嬉々として訪問してくるたび、苦々しい思いをしているのは私だけではないはずである。いずれ本誌でも取り上げることになるであろうが、自然素材で住まいをつくろうとする流れを堰き止めようとする、あるいは引き戻そうとする力に対して、アクションをおこす必要があるのではないだろうか。私たち専門家は住まい手の健康を守り、快適な住まいをつくる本流を進んでいかなければならない。


主張 (建築とまちづくり2003年5月号

「水」について考えよう

平本重徳

 二〇〇三年三月一六日から二一日まで、京都周辺で『世界水フォーラム』が開かれ、「水とエネルギー」など三八のテーマと三〇〇以上の分科会で議論された。新建の全国幹事会が京都で開かれたのを機に、大谷幸夫設計の京都国際会館に出向き、その雰囲気を少し味わってきた。
 会場の中へは入れなかったが、「水」についてもっと真剣に考えていく必要があると感じた。以前から、「人間が健康に生きていくために「衣食住」を見直そう」と提言してきたが、「水」はまさに食の中心課題である。植物を含めた地球上のあらゆる生物にとって大切なものであり、考えていかねばならないテーマでもあると思う。
 日本は世界有数の森林国であり、年間降雨量も二〇〇〇ミリを超える。高温多湿の国として、世界でも恵まれた環境の水資源国である。しかし、その水が悪化し、見過ごせない状況になっているのが、今の日本であるといっても過言ではないと思う。
 二〇〇三年三月一七日の朝日新聞には、「日本一汚い沼」である千葉県の手賀沼の、水循環再生の試みについての記事がある。雨が地面に浸みこみ、あるいは川や湖に流れ、いつか海に至って蒸発し、雨水になるという自然の水の巡り「水循環」がどうなったかというものである。一九六〇年頃の地表からの流出量が一八〇ミリ、湧き水が七五〇ミリ、地下浸透が八一〇ミリであったのに対し、一九九八年には地表流出が四六〇ミリで約二・六倍、湧き水が三七〇ミリで約〇・五倍、地下浸透が〇・七倍とのデータとなっている。約四〇年の間に沼周辺の環境が人為的に変化し、手賀沼の水質悪化が進んだため、汚染の改善をめざした試みがなされた。
 では改善のために何がされたのか。地表の流出が多くなり、わき水が少なくなり、水の地下浸透が少なくなり、沼周辺を含めた水環境が機能をしなくなった対策として、近くの利根川から導水によって沼のCOD(化学的酸素要求量)を下げることだけであった。これではその実効は利根川の水量に左右され、沼の水質がいつまた悪化するかわからず、本当の意味での改善とはいえないだろう。
 雨が降り注ぎ、最後には海に流れ、蒸発して雨になって降り注ぐという周期は、およそ二週間から三週間といわれている。しかし雨は地表から、長い年月をかけて地下深く浸透していき、何十年かかって地表に出てくるものもある。北極や南極の氷には何千年単位のものもあり、我々人類の前には知られざる水も存在している。また、深海には栄養分のある深層水があるといわれているように、水はH2Oという化学記号一つで表されるものではないらしい。
 さて、ここで一九九七年九月九日の毎日新聞の記事を紹介したい。日本で売られているミネラルウォーターはCODEX(食品の国際規格)を決める委員会で「ナチュラル」ではないと宣言されたというのだ。ナチュラルミネラルウォーターは、加熱殺菌やフィルター濾過をしない状態の水をいうのであって、ヨーロッパ規格である。人為的に手を加えた水は安全であっても、ナチュラル、すなわち自然ではないのである。雨が降ってから何十年、年百年前の水は、地中の鉱物や植物の栄養分が入り、時として微生物の善玉菌や悪玉菌もいるかもしれない。しかしそれこそが「ナチュラル」であり、手を加えることによって、人間の体に適応する水ではなくなっているのかもしれない。
 日本のミネラルウォーターがナチュラルとして認められなかったということで、地球上稀にみる水資源国でありながら、日本は最も汚染された国になったのではないかと危惧するものである。


主張 (建築とまちづくり2003年4月号

イラク侵略と地方選挙、何かが変わりつつある

竹山清明

 アメリカ・イギリスによるイラク侵略が始まった。国連での論議をないがしろにした理不尽な行為である。少なくない数のイラク国民が、米英軍の爆撃などの犠牲になっている。住宅地区に爆弾が落とされて多くの家・まちが破壊され、市民が殺され傷を負った映像が私たちのテレビに映し出される。
 しかし一方で、この侵略を取りまく世界の状況は、これまでとは異なってきているように思える。第一は、侵略の始まる前から、多くの政府の反対とともに、世界中で反対の運動が大きなスケールで起こったことである。多くの国で数万・数十万に達する反対デモなどが行われ、現在も継続されている。当該国のアメリカでも、草の根からの多くの反対運動が行われている。我が国の建築界でも新建築家技術者集団だけではなく、日本建築家協会の有志による反対声明も出された。その他の多くの分野で戦争に反対する意思表示がなされている。ブッシュ大統領やブレア首相は大方の世論からは孤立しているのは明らかであろう。このような状況は今後の推移に少なくない影響を与えるものと思われる。この点は前世紀の状況とは大きく異なっているように感じられる。
 第二は、アメリカ軍などによるイラク国民の犠牲が公開され、大きな問題として取り上げられていることである。ブッシュ大統領がフセイン大統領追い落としを主目的に掲げたため、国民を犠牲にする進め方を形の上では避けざるを得ないという事情や、インターネットなど情報公開が世界規模で進められているため戦争の実態があからさまになり、国民への危害や殺戮が世界的な非難の的になるという事態が、そのような状況を生み出している。ベトナム戦争などでの情報非公開下の大規模攻撃・殺戮という状況とは、相当に異なってきているように思える。超大国であっても、明確に説明できる軍事行動でなければ行動がしにくいという状況が生まれつつあるように感じられる。アメリカは自由な軍事行動を進めようとして、かえってその限界を明らかにしつつあるようにも思える。
 イラク戦争と時を同じくして、我が国では一斉地方選挙が進められつつある。国政に多くの問題があり、各地方にも様々な改善の課題が山積である。このところ、いわゆる革新派ではないが、アメリカや財界に尻尾を振る国政の方向に必ずしもくみしない県政が増加している。市町村の基礎自治体でも、そのような方向性は強まっている。共通しているのは、不要不急の公共事業の縮小や情報公開・住民福祉・まちづくりの重視など、市民の目線に近い地方行政が進められつつあることである。これまでは直接に政治に携わっていなかった市民が、自分のこととして議員選挙などに立候補する事例も増加している。今回の地方選挙で、市民の生活や地域のまちづくりに決定的な影響のある地方行政の、市民本位の方向でのさらなる前進が期待される。
 我が国や世界の状況は一瞥すれば必ずしも喜ばしいものではない。しかし、情報を隠して市民や国民に仇をなす形で公権力が物事を推し進めることが困難な状況は拡がりつつあるように思える。市民・国民の運動が大きく発展し、このような傾向がさらに根強いものとなることを期待したい。われわれ建築家技術者も平和で民主的な建築・まちづくりが前進するよう、市民と協力して、さらに誠実な取り組みを進めていく必要がある。そしてそれが報われる時代が少しずつ近づきつつあるようにも思われる。


主張 (建築とまちづくり2003年3月号

京浜臨海部再生に想う

永井幸

 新建全国常任幹事会は時の社会情勢、政策に対しての見解、声明を発表しています。各支部で各地域の情勢にてらして、これらの声明を各会員がどう受け止めているか、意見を出し合うことも大切だと思います。富山支部、北海道支部、東京支部などで開いている社会情勢に関する勉強会などは、その意味でとてもすばらしい企画だと思います。神奈川支部でも県の抱える諸問題について会員同士でもっと情報交換、意見交換をしていきたいと感じています。
 さて、昨年五月に新建全国常任幹事会は「都市再生関連法の施行にあたっての見解」を発表しました。この「都市再生特別措置法」ですが、神奈川県ではどんなことになっているでしょうか。先日、京浜臨海部の調査研究報告会があり、そこで私が感じたことを述べます。
 神奈川県でも京浜臨海部が国により構造改革特区に指定されました。県、川崎市、横浜市では、財政難により社会福祉、医療に対する予算を大幅に削減する一方で、京浜臨海部再生を掲げ、都市再生法による規制緩和をテコに都市再開発を推し進めようとしています。そこでは21世紀型産業を創出するといいますが、横浜駅周辺以外の都市再生緊急整備地域は交通の便が悪く、交通アクセスの改善だけでも巨額な公共投資を必要とします。県の広報やパンフレットを見ても、京浜臨海部再生の必要性のみが強調され、都市計画の方針、構想はあいまいで、事業費予測、リスクは示されておりません。
 情報開示不足と県民の意見を汲み入れる時間も充分でないままに壮大な再開発のための基盤整備を進行させ、誘致企業には助成、税制優遇をした挙句に失敗となれば、さらなる不良債権を子供たちに残すことになります。また仮に一つ一つのプロジェクトとしては採算が取れたとしても、それが地域経済の活性化と地域住民の生活向上にどれほどつながるかは大いに疑問です。工場跡地の土地利用のために無理して産業を誘致するのでなく、たとえば緑を植え県民に開放するなどの市民、NPOからのアイデアをどしどし取り入れて、皆でじっくり検討していったらどうでしょう。
 中曽根民活・規制緩和路線が生んだ不良債権問題を解消するために、再び規制緩和の手法と税金投入によって、国主導の都市開発を強引に推し進める方法(法の仕組み自体も問題が多い)に対して、一県民としても無関心であってはならないと感じています。
 話は変わりますが、日本の製造業は国内消費の約二倍の生産を誇っているそうです。半分以上は外国に売らなければなりません。輸出に頼る日本は円高によるリスクを背負いながら価格競争に勝つため、高効率化と合理化をめざし、ついには生産拠点をアジアに移し、安く生産し逆輸入します。当然のことながら国内生産は空洞化し、労働者がだぶつき大量リストラとなり、残った社員はサービス残業です。ますます深刻化する高齢化社会のなかで高効率化とリストラをさらに進めなければならない競争社会は、はたして民衆の求めている社会と言えるでしょうか。


主張 (建築とまちづくり2003年2月号

土地に思う

川本真澄

 お寺の旧借地権を借地非訟という裁判所の手続きを経て譲り受け、コーポラティブハウスを建てるというプロジェクトを進めていた。すでに栗の木コーポを経験しており、すんなりいくと考えていた。
 ところが裁判所が依頼した鑑定人が、借地権の譲渡は適切でないと意見書を書いた。裁判所は、意見書に従う。まさかの事態となった。もう住戸の位置決めも終え基本設計も終了し、実施設計に取りかかろうとしていた。九世帯の暮らしのイメージはとっくにできあがっていたのに……。上告という手もあったが、所要時間と可能性から見てあきらめざるを得なかった。とにかく新しい土地を探そうと再出発することになった。
 最初は三カ月くらいで見つかればと願っていた。早くこの痛恨の状態から脱したい気持ちでいっぱいだった。ところがそう簡単にはいかなかった。もともとの敷地は御所や賀茂川に近く、交通の便もよく申し分のない場所、しかも土地の取得費は路線価の六割程度だったから、その代替地はなかなか出てこなかった。土地探しのむつかしさ、理不尽さを思い切り味わうこととなった。
 まず、そのあたりでコーポ用地に貸してくれそうな地主さんにめぐり合うことは、砂漠で泉を探すがごとくに途方もないこと。いくつかの不動産屋をあたったが、借地はほとんど出ないとにべもない。
 市場に出回る物件には傾向がある。商業地域及び近隣商業地域のうなぎの寝床型敷地、間口九m×奥行三五mくらいのものがよく出る。ここに計画すれば、たいてい前後二区画を真中の階段室でつなぐというものになる。現にこうした七~一〇階建てのマンションが商業地域には林立しており、京町家に内包する坪庭の連続性によって確保されていた光と風の通りをぶつぶつと断ち切っている。まさかこんなものに手を染めるわけにはいかない。どう考えたって豊かなものにはなりそうもない。次に不良債権もの。銀行ががっちり高値で押さえていてなかなか動いていないように思う。バブルがはじけて売れなかった億ション一棟買いも検討したが、ゴージャスな玄関ロビーを始め、コーポの暮らしとはかけ離れていた。ベランダに鳩だけが住むゴーストマンションが無駄に建ちつづけている。
 魅力的な土地もいくつかあったが、市場に出回った途端に早い者勝ちの世界になり、まじめに検討をし、みんなの合意形成を図っているうちに出遅れてしまう。強敵は建売業者である。ぎっしりと建て詰まり、ゴテゴテとした醜悪な三階建ての街並みに塗り替えられていくのだ。
 そのうちに、協力をお願いしていた不動産屋からの情報をぱっと見た途端買い付け証明を入れるという業も身につけたが、結局いろんな裏があって、手に入らない。そもそも土地は物件なのか。億単位の買い物を瞬時に買えるわけがないではないか。怒りとやるせなさで一年が過ぎた年の瀬、住み手の一人が発見した不動産ビラの小さな物件に全員息を吹き返し、ありとあらゆる手段を講じて手に入れたのだ。とにもかくにも。
 先日京都府大のU先生にお会いした折、卒業生の就職先について意見を求められたので、優秀な人材をぜひ不動産屋と建売業者に投入して欲しいと進言したが、お気に召さなかったようだ。


主張 (建築とまちづくり2003年1月号


建築家技術者の社会的責任について

高橋偉之

 「新建」の第23回全国研究集会が昨年11月に行われた。近年充実してきている11ものテーマの分科会はますますさかんで、運動への蓄積と参加者に対する大きな確信をもたらしたものと思われる。
 またそれは記念座談会、基調報告、全体会などで、今「新建」に求められているものは何か、を考える良い機会になったと思う。
 本多さんの基調報告は「建築とまちづくりにたずさわる」建築家技術者が、単体建築と地域生活空間に「専門家集団」として社会的責任を負うことの重要さをあらためて提起した。
 「建築とまちづくり」を一体のものとして考えるという「新建」の理念の深化をふり返ってみると、「都市の環境を破壊から守るためには、住民が主体であることを前提として、建築家技術者の積極的な地域住民との協力が必要」であり、「住民主体のまちづくりは理念だけの問題でなく具体的な日常の仕事のやり方にかかわる問題」であるという提起が早くも第3回大会(一九七三)でされている。約一〇年後の第12回大会(一九八二)では、老朽住宅の更新や住環境整備を切実な課題とし、まちづくり計画の実現は「個別の対応とまちの将来像を結びつける建築活動が不可欠」であること、「単体設計者、官公庁技術者およびコンサルタントが協力してその実現にあたること」を主張している(『建築とまちづくり』199号(一九九三)、黒崎論文より)。
 また今回の記念座談会や全体会で提起された「人びとの要求に高いレベルで応える空間デザイン」を深化させることも、数年来重要な課題として議論されている。
 「新建」の建築論についても少しふり返ってみると、『建まち』52号(一九八一)に竹山さん、富樫さんの興味深い論文が見られる。
 竹山さんはモダニズムの建築およびその理論の評価すべき点を整理した上で、かれらが「地域主義」以降に創り出してきたさまざまな魅力あるデザインを、真に民衆にとってなじみ深くより魅力あるデザインに発展させていく努力を積み重ねていくこと、形のみへの沈潜でなく地域や民衆とのつながりの中で社会的諸課題の解決をめざすこと、そういう活動の中でこそ、現代建築デザインが発達しうるだろう、と述べている。
 この、「人びとの共感を得て支持されるデザインの住宅、施設、まちをつくる」という概念も、本多さんの提起した、建築家技術者の「集団としての」社会的責任の中に含まれる大事な課題であると私は思う。
 本多さんは、「新建」の理論と実践の上に立って、さらに具体的に「建築とまちづくりにたずさわる」とはどういうことだろうと問題を投げかけられた。
 今回の研究集会を契機に、①参加が自覚できるコミュニティー(東京支部・林さんの提起)形成とその発展への参画、②地域の建築とまちづくりの要求を探り出し、顕在化し、形にしていくこと、③多様な住要求への対応、④基盤となる住民組織を強めること、自治体や国の政策への反映――、こういったことを私たち建築家技術者の日常業務と結びつけてさらに追求していきたい。
 全体会2「人々に支持される建築家技術者」の報告は、各分科会の実践報告とともに、その先進的なとりくみといえるだろう。