
現代に求められる地域での共生と協働 ──コミュニティを再考する
コニュニティとは何か、地縁性を重視する 立場から機能的集団をも含める考えまで幅 が広い。しかし、これからの社会で適切に機 能するコミュニティを希求している点では 共通する。それは、農村から大都市に至るま でさまざまに形成されてきた小社会(集団) が変容・衰退してしまったからである。縮退 社会がしっかりランディングするためには コミュニティの存在が大きい。すでに進ん でいる萌芽もとらえながら、明日のコミュ ニティへの期待を語る。
・ポスト成長時代に待望されるコミュニティ 広井 良典
・宅地を使って都市型農園を 豊中あぐりの誕生 勝部 麗子
──定年後の男性の居場所づくり
・災害復興過程と地域コミュニティ再生の課題 鈴木 浩
・人口減少期の地域社会とコミュニティ 山下 祐介
◆連載
《災害復興の姿 6》 避難所の風景 ─ 日本とイタリア 塩崎 賢明
《コラム》 今になってピーター・カルソープ ! 伴 年晶
《新日本再生紀行19》金沢市 杉山 真
《普通の景観考 20》祇園祭の京都・山鉾町 中林 浩
主張 隣国との交流のすすめ
垂水英司 新建代表幹事
間もなく9月21日がやってくる。この日は台湾921地震(集集地震)が発生した日で、今年はちょうど20周年になる。当時、阪神・淡路大震災 が発生して5年目だった。私はまだ神戸市住宅局 に在職し住宅復興に当たっていた。間もなく台湾の内政部営建署(建設省に当たる)から神戸市に、 阪神・淡路大震災の経験を伝えに来てほしいとのリクエストが入った。地震のおよそ2か月後、私 は 人の技術職員と共に台湾へ向かった。多くの公的住宅を建てることに悪戦苦闘してきた私は、 その点を台湾でも聞かれると思っていたが、案に相違して公的住宅は話題にならなかった。正直拍子抜けの思いもあったが、自力再建支援に重点を 置こうとする台湾の復興の様子を見て、逆に興味をそそられた。間もなく退職した私は、「台湾通い」を始めることになったのである。
台湾との交流が一段と深まったのは、「ペーパ ードーム移築プロジェクト」だった。2005年、 阪神・淡路大震災の10周年の行事として、それまで付き合いのあった台湾の復興まちづくりの専門 家、NPOや住民など20人ほどを神戸に招いて交 流会を開いた。会場は、震災復興のボランティア 基地として注目を浴びた、たかとり教会である。 そこに震災後駆けつけた坂茂氏の提案で、焼け落ちた教会に代わって「紙の教会」ペーパードーム が建てられた。10年が過ぎ本設の教会建設のため間もなく取り壊す予定だったペーパードームに、 日台のメンバー約50名が集った。挨拶に立った台湾代表の新故郷文教基金会の廖嘉展董事長は、突 如「このペーパードームを交流の記念に台湾へ持って帰りたい」と表明したのである。そのときは一同「まさか!」と思ったが、その後、日台の市民プロジェクトとして移築しようと決意が固まり、 苦労を重ねること3年、台湾地震の被災地である桃米村に再生したのである。
ペーパードームが嫁入りした桃米村は、廖嘉展さんが支援に入って復興に取り組んだ小さな農村だ。人口が減り、農業も衰退した「何もない村」、復興に展望を持てない村民に、廖嘉展さんは「カエル、トンボなど自然がある。エコ村づくりで復興しよう」と逆転の発想を提案した。半信半疑だった村民たちも、生態池づくりや自然の学習などの実践に自ら参加するなかで確信を深めていった。 外部から訪れる人も増えてきた。民宿も建ち始めた。こうしてエコ村づくりの足がかりができ始めたころ、ペーパードーム(台湾では「紙教堂」) が嫁入りしたのである。紙教堂では、毎日のように講演会、学習会、音楽会、交流会などが開催され、年間20万人が訪れる、台湾でよく知られるポイントになった。
今年の9月21日、紙教堂で日本からも多数が参加者して20周年を祝う。この20年、多くのことを学ばせてもらった。台湾を通して日本を見返すと、 思わぬ気付きや発見があった。なかんずく、国を超えて人と人、地域と地域の交流の楽しさ、そし て大切さを感じ続けることができたのは、かけが えのない経験であった。
今、台湾に限らず隣国との交流がとりわけ大切だと思っている。隣であるからこそ複雑な歴史を抱え、愛憎も火種もある。しかし、これらの課題の解決を国家間の関係だけにゆだねることはできない。互いに譲れぬ障壁を作って、その前で立ち往生する国家の姿にその思いが強まる。人と人、 地域と地域の交流なら、そうした障壁を簡単に跨ぐことができるのだ。さまざまなテーマや地域で、 市民による隣国との無数のつながりができることを期待したい。今、兵庫支部、大阪支部の有志で「建築とまちづくり・台湾見学の旅』の企画を始めたところである。隣国とのつながりのひとつになればと思っている。
そんななか、昨年12月頃から新建メンバーも含めた何人かで準備を始め、4月23日に文京区民センターで、コーポラティブハウス推進協議会が主催、新建東京支部ほかも共催という形で「まちの縁側と延藤安弘ものがたり」として開催されました。
当日は106名の方が参加され、延藤先生が晩年活動されていた名古屋のまちづくりNPO「まちの縁側育み隊」の代表理事を引き継がれた名畑恵さんをお招きして、延藤先生の足跡を講演してもらいました。新建としては、昨年11月に犬山の研究集会での基調講演に続き2回目となりました。 名畑さんは、大学2年の時に延藤先生と出会い、その後17年間、一緒に全国を歩き、先生のもとでまち育てを学びました。「まちの縁側育み隊」の活動もその一つで、「人がつながる」交流拠点を運営し、地域のみなさんの発言を見える形で表現して、ともに計画づくりを進めながら、まちの状況を変えるお手伝いをしてきた方です。
講演の内容では、延藤先生の少年時代の写真を皮切りに、京大時代、熊大時代、千葉大時代、そして名古屋愛産大時代、それぞれ代表的なプロジェクトを挙げながら、その考え方やスタンスなどをお話しされました。お話の最後に、入院先で聞いた先生の最後の言葉は「ゆたかな……」でした。その……が、聞き取れなかったのですが、この永遠の問いかけの意味を考えながら、先生の意思を引き継いでいく決意です、と締めくくられました。 Ⅰ部の後半は延藤先生との想い出話が4人の方から語られ、その内容を名畑さんにファシリテーショングラフィックでまとめをしてもらいました。名畑さんは、延藤先生のまちづくりの現場でファシリテーショングラフィックを使ってサポートし、会合の内容を見える化し議論を活性化させ、延藤先生の韻を踏むまとめにつなげています。
中島明子さん(和洋女子大学名誉教授)
延藤先生が京大西山研究室助手時代に、当時助教授だった絹谷先生の影響を大きく受け、接していた半年間に多くのことを学ばれたようでした。絹谷先生は留学先のオランダで事故死されたのですが、その生まれ変わりではないかと感じたほどでした。この京大助手時代に行った地道な研究や実践がのちに大きく花開くことになったと思います。まちづくりからまち育て、さらにはまちの縁側という概念を全国に広げ、日本の住まいとまちの計画論を大きく変えていった人だと思います。○保倉俊一さん(コーポ高幡管理組合理事長) 私は国土交通省の住宅局で仕事を始めました。延藤先生との出会いは都市防災対策の委員会に学識経験者として参加してもらったことでした。延藤先生から学んだことは、行政はどうしてもすぐに結果を求めがちですが、プロセスを大事にすること、みんなで考える場をどう作っていくかを教わりました。それと、私は日野市で40年前、自らコーポラティブハウスをつくり、その後も自主管理を行い、現在も住んでいます。そのことで延藤先生から呼ばれて、長崎でコーポラティブハウス立ち上げの話があった時に経験談を話しに行ったことがありました。○浅海義治さん(練馬みどりのまちづくりセンター所長) 1980年代後半から90年代にかけて、世田谷のまちづくりの創生期から発展期に延藤先生にお世話になりました。まちを観察して絵地図を描き、思いを表現するまちづくりコンクールに始まり、まちづくりファンド助成では公開審査を提案していただき、対話からまちづくりを学ぶことになりました。団地の建替えやコーポラティブハウスの建設などを進めるなかで、多くの人たちをまちづくりに目覚めさせる名人でした。日常のなかに、幸せや希望があることを気づかせてくれました。○矢勝司さん(岡崎まち育てセンター・NPО「りた」事務局次長) 延藤先生の下で学びたくて、名古屋から千葉へ移り、今は地元岡崎でNPOに関わっております。地元に戻るきっかけを作ってくれたのも延藤先生でした。延藤研究室のなかで、ファシリテーショングラフィックを扱い始めたのは私からで、林泰義さんがまとめをしたファシリテーショングラフィックの写真を見せられて、「これやってぇ」の一言がきっかけでした。市民参加による公共施設の建設、まちづくりに関わる人材育成プログラムの仕掛けなど、重要な経験をさせてもらいました。 Ⅱ部では、立食形式の交流会が行われました。ほとんどの方が残られ、それぞれで延藤先生の想い出話が語られました。1時間程度の短い時間でしたが、数名の方から回想話を披露していただいたり、久々に会う方などの交流にもなり、「つながる」というテーマにも一役買った交流会になりました。さらに別場所での2次会にも十数名が参加し、延藤先生のあまり知られていない話なども聞けて、全体として有意義な偲ぶ会となりました。
(東京支部・江国智洋)
28日は館山市城山公園と沖ノ島の散策後、会員の勤務する建設会社の会議室をお借りして、新入会員2名の密度の濃い活動報告を拝聴しました。翌日は会員の仕事を見学し、充実した2日間となりました。
(千葉支部・長房直)
ーー 参加者の感想 ーー
初日は館山湾に浮かぶ富士山の絶景を楽しみ、ツツジ満開の城山公園と沖ノ島巡り。城山公園のクジャク園では2羽のクジャクが羽を広げてくれ、参加者は大感激。岸田(新会員)さんは、館山と東京で2地域居住+2つの仕事をやっている報告(館山でさまざまな方たちと関わり合いを持ちながら活躍の場を広げ、学校の改修などの仕事に関わっている経験は刺激的でした)、金沢(新会員)さんはODAによるアフリカの学校などの建設に長年関わってきたことの報告(ODAとJAICAの説明、実際に何度もアフリカに行って設計や監理に関わってきたことをさらりと話されましたが、すごい経験です!)、それぞれとても興味深い話を聞けました。2日目は参加者が設計や施工に関わった住宅、古民家の改修2件を見学しました。住んでいる方、利用している方と話ができ、とても満足している様子が伝わってきて、見学した私まで嬉しい気持ちになりました。
南房総市で建築施工を中心に取り組んでおられる戸倉(新会員)さんの会社に寄ったところ、モルタルでリアルに製作されたレンガの壁、消火栓など……若い職人さんの腕にビックリでした。最後は大山千枚田あたりの新緑がきれいで、とても充実した二日間になりました。
(同・鈴木進)
新会員歓迎合宿は好天に恵まれて、大変愉しく、房総の春を満喫しました。新会員の方の活動報告は素晴らしく、これから会員諸氏への刺激が楽しみです。続いて、会員諸兄の仕事を見て回りました。加瀬澤さん設計の新築住宅では小屋組みを露出した直天井が美しく、お住まいの方のおもてなしに住宅への満足度が覗われました。
長房さん、鈴木さん監修の古民家を改修した自然学校「ろくすけ」では、改修を最小限に抑えて、欄間や千本格子の引き戸、そして吊り下げた神棚の細工物など職人技が保存され、いつか子どもたちも、その技術に目覚め、評価する時が来るだろうと予感されました。外では子どもたちが夏ミカン取りに熱中していました。また、棚田の千枚田ではコメ作りの苦労が偲ばれ、のんびり餌を探すアオサギの姿が興を添えていました。
その後うかがったシイタケ栽培の大屋根のお宅では思いがけないお土産もいただき、帰宅後、大手を振ってヨメサンに房総合宿の報告をした次第で、充実した合宿となりました。
(同・泉宏佳)
「ろくすけ」を訪問すると改修工事の施工者㈱戸倉商店の戸りして、新入会員2名の密度の濃い活動報告を拝聴しました。翌日は会員の仕事を見学し、充実した2日間となりました。
(千葉支部・長房直)
「ろくすけ」を訪問すると改修工事の施工者㈱戸倉商店の戸倉隆行さんが待っていてくれました。「ろくすけ」には以前から関わっていたとのことで、地域に心強い味方がいたのですね。戸倉商店にお邪魔すると社屋の向かいに広い資材置き場や太陽光発電施設、テーマパークなどに設えるモルタル疑似ディスプレーがあったりして、多角的な経営をされていることがわかります。
印象に残ったのが太陽光発電で、1反(300坪)で農業の売り上げが年5万円のところ、太陽光発電では売電価格が14円/kwhまで下がったとしても150万円になるという話です。農業は国の礎ではありますが、後継者不足の現実は厳しく、一方原発に未来はないことは明らかなので、自然エネルギーに展望を見いだすしかないと力強く話してくれました。農業問題も含め、改めてお話を聞く機会をつくりたいと思いました。
(同・加瀬澤文芳)
N邸は新築で、A邸は古民家再生の住宅、二邸とも無垢材の柱や梁の伝統的な木組みの家です。その素材感と構造美に、魅せられました。また、いずれもそこに住まわれているオーナー様の大変満足されているご様子に、それを設計された加瀬澤さ
んや施工を担当された深野さんの仕事ぶりに、深く感銘しました。〝実にいい仕事されていますね〞。
(同・高山登)
昨年大阪市は「こども本の森中之島」施設の基本方針を公表しました。建築家の安藤忠雄氏が2017年9月に大阪市に提案、17年11月に大阪市と安藤忠雄建築研究所で覚書を結んでいました。「知のワンダーランド」をコンセプトとし、大きな吹き抜けを囲う壁一面に本棚を設ける計画です。乳幼児から中学生とその保護者をメインターゲットとし、入場は無料。19年の秋ごろの開館を目指すというものでした(現在では20年3月完成となっています)。
建築費は安藤氏が負担し、運営費は個人や法人からの寄付で賄うとしていて、19年3月末で5億4000万円が集まっていると発表されています。また、大阪市はこの施設の周辺道路約150mを閉鎖し、歩行者向けに開放。広場にする方針を明らかにしました。この突然の計画発表と、どんどん進んで行く工事に怒りと危機感を抱き、大阪支部では昨年夏ごろから、他の専門家や市民と共に、見学会やシンポジウムの活動をしてきました。
さかのぼること約50年。中央公会堂を中心とした中之島公園一帯の歴史的景観が、超高層ビル群に建て変わる「中之島東部地区再開発計画」が1971年に発表されました。古くなった市庁舎を建て替え、御堂筋から公会堂まで約2万2600㎡に高さ3mの人工地盤をかぶせ、その上に25階建の市庁舎、5階建の議事堂、6階建の公会堂をのせるというものでした。その後から、当時の新建大阪支部が立ち上がり、「中之島を守る会」や「中之島まつり」など、市民を巻き込んで運動をしたことで、保存された中之島の公会堂は大阪のシンボルとなり、市民はもとより大勢の人々に愛されています。 1918年(大正7年)に実業家岩本栄之助氏の寄付によって完成した中央公会堂は昨年100周年を迎えましたが、大阪市のHPからはその保存運動の経緯はまったく消されています。語られていない歴史の真実││保存運動の全容はいくつかの書籍となって残っていますが、今一度その成果を未来につなぐ必要があると思います。 近年の中之島公園は少しずつ変化しています。新しい駅の入口や飲食店などの建物ができて、川べりはコンクリートで覆われて緑が減り、そして今、安藤忠雄氏の寄付による「こどもの森」という図書館もどきのコンクリートの建物が建とうとしています。このままでは中之島が「にぎわい創出」という流行り言葉を使った、金儲けのための空間になってしまうのではないかと、心配しています。私たち新建大阪支部は変化する中之島公園を改めて見直し、もう一度中之島の在り方を再考する必要があると考えシンポジウムを開催しました。
保存運動に関わった出席者からは、運動の経緯と当時の熱い思いが語られました。また、中之島の過去の航空写真から見た緑と環境の変遷が報告され、やはり公園に求められるのは建物ではなく、自然・生き物・人とのふれあいであり、それでこそ、子どもたちが集い遊ぶ「本当の森」になると思いました。 中央公会堂の開館100年、そして新建運動50周年を機に、市民が守ってきた中之島公園の歴史的な景観を未来に引き継ぐために、改めて活動していくことで決意を新たにしました。
(大阪支部・栗山立己)
生駒市は平成29年度に「生駒市空き家等実態調査」を実施し、1444棟の空き家があると報告しています。今回の企画に行政や市民のみなさんの関心が高いことが実感できました。
設計者 岩城さんのお話
生駒市で国産材・県産材(吉野材)を使った木の住まいの設計を業務とし、新築住宅の他、リホーム、民家・町屋の改修設計も手がけています。住まい手の小野さんご家族とは奈良をつなぐ家づくりの会主催の「奈良の吉野の森見学ツアー」で出会い、今回の民家再生のきっかけとなりました。 再生前は、土間と田の字型の和室、南の庭に面する縁側がある典型的な民家のつくりでした。どのような住まいに改修するか打合せを重ね、以下の点に整理されました。
①田の字型の和室+縁側の間取りは残す。畳も多く残す。②階段が急勾配、位置も不便⇒階段は玄関ホールに移動し、勾配も緩く。③キッチンは大人数でも使える広々したL型キッチン+アイランドの作業台。④別棟にある浴室、洗面、トイレは室内に新設する。⑤冬寒い北側の部屋に薪ストーブを設置。⑥子どもたちからボルタリング壁がほしいとの要望。吹き抜けの壁を登れる壁に。⑦良質な古民家の建具を再利用する。⑧断熱改修 床と天井の一部に断熱材を入れ、開口部の一部も断熱性能を上げる⑨耐震改修は壁の改修をする箇所で耐力壁を増やす。
床の断熱材は床下から入れることで仕上げの改修を不要とし、改修が必要な床は杉の床板を使用しました。杉の床板は冬暖かく夏は爽やかで、調湿効果もあるため結露も減ります。足にふれる床の素材をかえるだけで体感温度も変わります。また、住まい手が工事に参加することで愛着の持てる家にとの思いから、解体工事は大工さん、土壁の改修は左官屋さんの指導で住まい手が参加し、床・建具のオイル塗装・木部の柿渋塗装や30枚の襖の張替えをご主人が行いました。空き家民家を直して住み継ぐことは、お財布にも地球環境にも優しいエコな暮らし方のひとつで、古いものを大切に使うことが暮らしを豊かにすると思いました。
住まい手 小野さんのお話
一家で奈良への移住を考えるきっかけになったのは、3・11の震災後の放射能・食の不安、息子のアレルギーで食の大切さを痛感したことなどです。自給自足が成り立つ暮らし、自然のある環境で子育てをしたいと思いました。実家に近いところに家を建てることを決意しましたが、住みやすい間取りと自然素材で「いいものを長く」を実現したいとの思いと、もったいない精神から民家再生をすることにしました。
可能な限りDIYを取り入れる、昔ながらのよさを残す、自然素材を使う、コストを抑えるなど、思いを実現のするために打合せを重ねました。解体作業中には床下から昔ながらの掘りコタツが出てくるなど、50年前の生活が垣間見えました。近所の古民家の解体現場から建具をもらい、その再生作業を通じて古い建具に魅せられ「いいものを長く」の思いが定着し始めました。リビングスペースに薪ストーブを設け、冬の暖房は薪ストーブのみの生活をし、アイランドキッチンで家族一緒に料理ができ、料理教室にも使えます。急勾配の階段を作り直したストリップ階段は、家のシンボルになっています。泥まみれの子どもたちがお風呂に直行できる土間、吹き抜け空間を利用したボルタリング壁、田の字型和室空間は家族がくつろげる広いリビングを実現できました。
また、古民家の改修工事を通じて、職人さんの技のすばらしさ、毎日コツコツつくり上げてくれるありがたみ、昔ながらの自然素材の良さ(土壁・木・瓦・古建具)などを実感できました。家族全員が身体を使い、多くの事を学んだ良い経験になりました。
ーー 参加者の感想 ーー
ご主人の心の移り変わり、現場での活躍を聞くにつけ、素敵なご家族、素敵な建物、素敵な現場だったと思います。セミナーに参加できて良かったです。▼設計者と使い手がどういうプロセスで改修という形に進んだのかというところと、次世代のためにいいものを残すということの大切さが良くわかりました。▼いろいろな経緯でたどり着いた空き家の再生という取り組みが印象的でした。▼住みながらの改修もとても興味深くお聞きしました。ぜひ、古くても良いものを残しながらする生活を志したいと思います。▼岩城さんの実務的な話とともに、住まい手の小野さんのリアルな家づくりのプロセスと住んでからの感想が勉強になりました。▼田の字型プランのリユースの可能性についての小野さんの話は現代の住まい方、新築を考える上で重要と感じました。
(奈良支部・乾 安一郎)
県民センター小川事務局長は大震災8年間の「現状と課題」を報告した。宮城県が「震災復興は着実に進捗し、ハード整備は非常に順調、2021年春終了」との認識について、その言葉とは裏腹に、県のアンケートでも、「復興の実感は50%以下」と回答した被災者が41%にも上ることや、「被災者の健康・将来の家賃・収入三つの不安が強まり失職、住まいの再建やコミュニティ形成の遅れ、高齢化による健康不安と苦難の連鎖に繋がっている」こと、センターの取り組みと合わせて被災者目線で報告した。
第一は、被災地の急激な人口減少とともに地元経済や働く場、自治体の復興計画に大きな狂いが生じ、維持管理費負担が問題である。
第二は8年かかっても解消できない仮設住宅、8年もかかった災害公営住宅建設。今年3月の仮設入居戸数は305戸であり、解消には2021年3月までかかる。すでに災害救助法の供与期間2年を大きく超えている。法の仕組み自体に根本的な問題があり、復興政策の失敗といえる。災害公営住宅建設は8年も要してしまい、大幅に見通しが狂った。被災者が入居をあきらめ、地元を離れ新たな住まいを他に求めるなど、被災自治体の人口減少の大きな要因にもなっている。
第三は、災害公営住宅の新たなコミュニティづくりの困難さの問題である。入居者の40%が「日常的な付き合いがない」と感じているなかで、仙台市は「被災者生活支援室」を廃止するなど、コミュニティ形成の重要な担い手である町内会運営の困難さに、さらに追い打ちをかける自治体政策のあり方に大きな問題がある。
さらに、「災害援護資金貸付」(県内2万4000世帯、上限350万)の返済が始まったが、仙台市では55%4546人が滞納となるなど、生活環境の激変で返済が容易でなくなり、被災者の困難で一層深刻な状況が現れ始めている。制度の隙間で取り残されている在宅被災者(シンポジウムのテーマ)問題と合わせて、一層深刻になってきている現状の報告が行われた。最後に、「被災者生活再建支援制度」の抜本的改正の重要性と喫緊の課題が報告された。東日本大震災で宮城県の13万以上の世帯に2157億円の支援金が給付された。過去50年間の自然災害で約1100万棟の住宅被害があり、その74%が「半壊・一部損壊・床上浸水」被害(全国知事会調査)である。現行支援制度は阪神淡路大震災後に「被災者生活再建支援法」として生まれたが、「全壊・大規模半壊」までであり、抜本的な改正「半壊までの拡充」(2018年11月全国知事会提言)について今後一層、議会への意見書採択の取り組みを進めることが報告された。
シンポジウムは水戸部氏(医師・センター世話人)の司会で、パネラーのチーム王冠の伊藤代表からは、徹底した在宅被災者支援を続けているなかから見えてきた「復興どころか復旧すらできていない6万世帯の在宅被災者」の現状を報告。これらを取材カメラから報道し続けている中関NHKチーフ・ディレクターの目線を、元大阪経済大遠州教授は、「東日本大震災100の教訓」から見えてきたもの、「単線型支援が実は被災者やコミュニティの分断」であり、「大量の在宅被災者を生み出し、見過ごされている=認定基準の罠」と告発した。
(宮城支部・岩渕善弘)
東京都が大手ディベロッパー11社に晴海の1等地を市場価格の9割引き、坪30万円でなぜ投売りしたのか、都民の批判と怒りが広がっています。『週刊文春』の5月29 日号では「第2の森友、五輪選手村1500億円値引き、業者の優遇、天下りの疑惑に都知事は知らん顔」と報道されました。
5月16日、東京地裁で晴海五輪選手村土地投売り裁判の第6回口頭弁論が原告席、傍聴席をっしり埋めて開催されました。当日は原告ら代理人の淵脇みどり弁護士が口頭意見陳述を行いました。 淵脇弁護士の陳述の趣旨は次通りです。「都民の財産である土地は近傍同種の土地の取引価格を考慮して決めるのが原則。時価でなく開発法による1 2 9・6億円は異常な安値である。オリンピック要因を反映しても土地の適正価格は不動産鑑定価格で1529億円であり、認めことはできない。また、開発による土地代金は契約時に全額払うことになっているのに特定建築者は10%の保証金だけ支払い、残金は4年後の建物竣工時に支払う約定になっている。なぜ都のような不当な廉価、支払い条件が導き出されるのか。原告団は都の財務会計行為の違法性、不正な官民癒着、官製談合防止法違反は次回期日までに証拠を提出する。都が事業手法や土地価格について民間事業者の参入を促進する『選手村開発方針検討支援業務委託』文書が、廉価な価格協議のシナリオである。都は事業協力者との協議記録は『すでに廃棄して存在しない』として開示しないが、原告は事業協力者13社に対して都と事業者間との協議を開示するよう調査嘱託を申し立てる」 法廷終了後の報告集会で淵脇弁護士は「都が不動産鑑定基準による鑑定価格を出しておらず、129億円は異常な廉価であり適正価格ではない。都と事業協議者の協議記録の提出を求めていく」と報告しました。 傍聴した「正す会」会員からは「森友8億円の175倍。1400億円の都民財産が大手ディベに売り渡されようとしてる。『週間文春』などマスコミも取り上げており、都民の中に晴海選手村投げ売り疑惑を広く訴えよう」などの意見が出ました。
都民とともに都営住宅の新規建設を要望している中小建設業者の立場からは晴海選手村13・4haの都有地に都営住宅をはじめ、保育園、高齢者施設などを建設する世論、運動を広げることが不当売却への都民の怒りを引き出すことになると思います。大手ディベ11社企業連合と都との土地売買契約の不当性を裁判で明らかにし、都民の財産を取り戻す「正す会」の運動を広げていきたいと思います。 次回第7回弁論は9月13日です。
(晴海選手村土地投げ売り正す会・星野輝夫)