2016年1月号(No.448)

特集:身近な生活環境を凝視して──地域「縮退」の実相

 

国を挙げて「地方創生」に取り組む時代である。縮退する地域を支えることは当然必要であるが、今の施策は効率のいい国土利用のための地域再編でしかないとの指摘もある。そもそも、人口減少などの縮退が地域や生活者にどのような影響をおよぼしていたのか。その実相を見極めようというのが本特集の狙いである。生活領域での人々の営みの多様さや豊かさとともに、持続の難しさも見えてくる。

・「人口」操作による国土「再編」から人間主体の地域づくりへ
三・一一被災地陸前高田市の震災復興事業を追跡して        片方 信也
・京都市で進む縮退の歪み                    久永 雅敏
・生物が多様だった岡山県北・真庭市
子供時代をこの中山間地ですごした                伴 年晶
・茨城県北の里山と東京圏の郊外地                鎌田 一夫
・《第30回新建全国大会記念講演》「地方創生」と大都市問題    岡田 知弘

 

■  新建のひろば

・災対連全国交流集会2015inみやぎ「憲法をいかし、被災者本位の復旧・復興と原発ゼロへ」の報告
・関東・東北豪雨災害・現地視察と相談会の報告
・復興支援会議ほか支援活動の記録(2015年11月1日~2015年11月30日)
・石田頼房先生を追悼して
・新建築家技術者集団第30回全国大会報告
・2015 第11回新建賞
・第11回新建賞の審査結果について

■  連載

《ハンサム・ウーマン・アーキテクト6》福島原発事故と向き合う菅野真由美さん  中島 明子
《創宇社建築会の時代11》アヴァンギャルド芸術への挑戦            佐藤 美弥
《20世紀の建築空間遺産5》チューゲンハット邸                小林 良雄
《設計者からみた子どもたちの豊かな空間づくり20》
保育室の外れこそ、保育園に必要な場所                     さとう みき


主張 『15年続ける台湾との被災地交流──「数珠つなぎ」方式のすすめ』

新建代表幹事 垂水 英司

 

「垂水旅行社!」……最近台湾の友人からよくこう言って冷やかされる。もちろん旅行社というのは冗談だが、台湾のグループを日本へ、日本のグループを台湾(時に中国)へ、私が橋渡しをしながら同行した交流ツアーは、昨年1年だけでも4回にのぼる。
6月には、6年前に大きな水害に見舞われた台湾南部高雄市にある六亀高校の合唱団70名が、東北の大槌、石巻の高校を訪問し交流した。8月には神戸の学際的な研究グループで、大連の二つの大学を訪れて交流した。11月には、台湾の観光地日月潭から松島に寄せられた義援金が契機となり、二つの観光地の相互交流を模索してきたが、今回松島の関係者20名が埔里・日月潭を訪問し、これからの交流発展を互いに約した。12月には、神戸の下町からアートやまちづくりを発信し続けている関係者らが、台湾高雄と神戸の下町同士で継続的なアート交流を模索するため、高雄の芸術村やアートに関するまちづくり現場を訪れた。

こうした活動に関わるきっかけは、15年前にさかのぼる。私は長年勤めた神戸市役所で阪神・淡路大震災に遭遇し、住宅復興に5年間従事した1999年、台湾で大地震が起こった。台湾営建署の招きで台湾に赴いたのだが、不思議な親近感を覚えて、その後頻繁に台湾を訪れた。
2005年から始まった「ペーパードーム台湾移築プロジェクト」で、台湾とのネットワークは一気に深まった。ペーパードームというのは、震災で焼け落ちた神戸のたかとり教会を、建築家坂茂氏の提案で紙管を使って建てた仮設建築物である。阪神・淡路大震災10周年を記念して台湾から約20名の復興まちづくり関係者を招き、このペーパードームで歓迎会を催した。挨拶に立った台湾の代表から、間もなく解体予定のペーパードームを台湾の被災地に移設したいと突然の提案があった。それから3年、その間の苦労話は省略するが、台湾と日本の被災地市民の協働プロジェクトとして移設は実現した。今もペーパードームは被災地交流の証として、台湾の南投県埔里桃米村で多くの来訪者を迎えている。
こうして広がったネットワークの中から、「白屋アートプロジェクト」が始まった。5m×10mの木造小屋「白屋」を各地に移動させ、集まったアーティストが地域と交流しながら壁や天井に現場創作するというものだ。このプロジェクトを日本でやってみたいと、台湾高雄の芸術村から申し出を受けた。2012年~2013年にかけ、台湾から運んできた「白屋」を石巻、大槌、そして神戸と巡回させ、台湾に戻すプロジェクトをなんとかやり終えた。多くのアート作品とともに、新たな出会い、多様な交流が実現したと思う。
15年続けてきた被災地交流──最初に大それた計画があったわけではない、苦労はあるが過程を楽しみながら、一つまた一つとプロジェクトを繋いできた。肩の力を抜いた「数珠つなぎ」方式のようなものだ。それでも今振り返ると、「被災地支援から被災地交流へ」といったコンセプトが漠然と頭に浮かぶようになった。