2019年1月号(No.481)

明日につなぐ建築まちづくり活動──第31回新建全国研究集会から

 

第31回新建全国研究集会は愛知県犬山市で開催された。犬山は12年前セミナーを開催した縁の土地である。12分科会60編の報告は、様々分野での建築まちづくり活動の明日を指し示している。その中から都市計画論、すまいとまちづくり、施設建築など5テーマの報告を紹介し、あわせて記念企画や見学会の報告、参加者の感想を掲載した。

 

・第1分科会報告 立地適正化計画批判と場のまちづくり         岩見 良太郎
・第4分科会報告 山がくれた遊具                   大塚 謙太郎
・第5分科会報告 まちなかのみんなの居場所「まちかどサロン」     野田 明宏
・第7分科会報告 平屋のむらづくり                  伴 年晶
・第10分科会報告 地域で暮らす障害者のグループホーム         星 厚裕


・第31回新建全国研究集会(犬山) 全体と分科会の報告/記念企画/交流会/見学会/参加者感想

 

◆新建のひろば

西日本豪雨災害──岡山県内の状況報告

「災害対策全国交流集会inいわて」

奈良支部──「葛城の歴史と町並みを訪ねるハイキング」

・「東京地方自治研究集会」2つの分科会を中心に参加

・復興支援会議ほか支援活動の記録(2018年11月1日~ 11月30日)

 

◆連載

《災害復興の姿 プロローグ》国内外の震災復興の事例に学ぶ   塩崎 賢明

《普通の景観考14》ソウルの街路景観             中林 浩

《新日本再生紀行14》奈良県生駒市              伏見 康司

 

主張『ライフ・ステージをつなぐコミュニティ空間を─京都の緊急課題』

全国代表幹事  片方信也

 

 文化遺産の保存にみる京都市の行政の乱脈ぶり、観光客のインバウンドを背景にしたホテルラッシュ、民泊急増問題など、最近の身の回りで起きている事象に目を向けてみると、歴史都市京都の市街地環境の変貌ぶりに驚くばかりでなく、そこには住み続けてきたことによって身についてきた市民の生活感覚や価値観までねじ曲げようとする思惑が頭をもたげてきているように思われる。
 京都の下鴨神社とその境内は、それぞれ資産(Property)と緩衝地帯(BufferZone)との位置付けで世界文化遺産に登録されている。ところが、緩衝地帯である「糺の森」でのマンション開発が、地元住民や市民による異議申し立てに耳も貸さずに許可・実施された。この行為は、遺産条約に規定される、人類全体の「顕著な普遍的価値」を開発業者の側の利己的な利益へと転化させることであるが、京都市の判断はこの措置を制度運用の価値基準に組み入れ、市民が文化遺産に托する、いわば人間の文化への精神の支えとなっている感覚と価値観を押しのけようとする働きをしていることは自明である(昨年の新建全国研究集会の第7分科会で報告)。
 昨年5月には、この開発を京都府建築士会が第6回京都建築賞の「優秀賞」に懸賞しており、その講評は、葵祭の「風雅な装い」の隊列の「鑑賞が可能になる集合住宅は稀有な存在」であるとまで持ち上げて述べている(京都府建築士会「京都だより」№505、2018年8月)。ここには、先に触れた文化遺産の価値の経済的利益への転化行為を建築設計の視点からバックアップする見解が示されており、これに驚く。
 息つく間もなく市民の目の前に突きつけられたのが、2007年にスタートした「新景観政策」における高さ制限の規制を緩和する策の案であった(「毎日」2018年11月17日記事)。
 内容は飲食店などを誘致する場合に、御池通や五条通の一定の区間の高さ制限を緩和する。たとえば、御池通では河原町通から堀川通の区間で、31m制限を一定条件のもとで3〜5m緩和する。その他、スーパーや保育所などの設置を「地域のまちづくりに貢献する」などと位置付ける条件で従来の「特例許可制度」も見直し、候補地として市営地下鉄の竹田駅などが挙げられている。
 その目的は、近年のインバウンドを背景にしたホテルラッシュなどによる地価高騰をやわらげ、マンションやオフィスが立地しやすくすることによって若年層の流出を阻止するためと説明している(同記事より)。しかし、この措置は主要幹線道路沿いと駅という交通拠点に、高層ホテルや高負担が可能な階層向きの高層マンションが進出しやすいように取り計らう意図を持っていることは明らかで、若い人たちがマンションに住むのは一層むずかしいことになるのは論を待たない。
 上記の事象のいずれにも共通しているのは、開発主体が利己的に経済的利益を優先する投機的開発主義というべき観念が貫いていることではないか。いまや、行政側もそのような開発を是とする新自由主義の一翼を担い、市民を説き伏せる側に立っていることをはっきりと示しているといえる。
 いま大切なことは、そうした観念の押しつけを許さず、真の意味で歴史的に市民自身が育ててきた自然環境・歴史的文化的な京都の生活空間と、生命体としての人間との一体性を見直すことの重要性である。その一体性感覚は、実に町家や長屋が存立する低層高密居住が可能な、そして子たちの遊び場など世代をつなぐ憩いの空間ともなる寺社などの境内地や、樹林地を含む歴史的街区・市街地を守り続けて来た伝統によって市民が体するようになったもので、その継承こそ、京都市民が共同して取り組むべき住まい・まちづくりの課題ではないか。京都市はこれを全面的に支えなければならない。


岡山支部 ― 西日本豪雨災害 岡山県内の状況報告

  日時:2018年8月27日(月)〜28日(火)   

  場所:倉敷市真備地区と岡山市東区東平島地区

 

 昨年の7月豪雨は、西日本各地に大きな被害をもたらしました。岡山県内の三大河川である、高梁川、旭川、吉井川流域のなかでも高梁川流域がもっとも被害が大きく、越水や堤防決壊が各所で発生しました。また、土砂災害についても、いたるところで発生しました。

 

 そのなかでも特に被害の大きかったのは、倉敷市真備町で、7月6日の夜から翌日7日にかけて、地区東西に流れる小田川とその支流計8カ所の堤防が決壊し、真備町区域の27%が浸水(旧集落は無事)しました。その被害の詳細は、マスコミに報じられている通りです。

 私は、新建復興支援会議のメンバーとともに8月27(月)~28日(火)に倉敷市真備地区と岡山市東区東平島地区を現地視察しました。その際、真備地区では、トレーラー仮設住宅(当時は建設中)、被災家屋、岡田小学校(避難所)、小田川堤防決壊個所二カ所。東平島地区では、被災家屋および砂川(旭川支流)堤防決壊個所を訪れました。

 今回、真備町地区で51名もの死者を出したのは、水深4mを超える水没地域が広範囲に発生したのが最大の要因だと言われています(ちなみに床上深さ1m強の水位に達した東平島地区では、死者はありませんでした)。

 岡山支部会員では、竹村さんの真備町自宅が床下浸水、中川さんの東平島の会社の事務所が土間床上浸水、佐藤さんの真備町の夫の実家が床上浸水といった被害を受けています。そういった状況のなかで、岡山支部では、昨年の9月7日(金)に、今回の豪雨災害被害を考える例会を開きました。私の視察体験や被害を受けた会員の状況説明とともに、参加者が今回の災害に関わった体験を踏まえて意見交換をしました。工務店勤務の亀谷さんは、勤務する工務店が過去に建設して被害を受けた物件の補修に追われているとのことで、被害状況の画像とともに補修方法についても説明されました。それらの家屋は、浸水した高さまでの内装材およびグラスウールなどの断熱材が機能を発揮しなくなっているため、浸水高さ+1m程度の高さの外壁に面した壁を取り払って補修工事がされています。また、被災者に対しての相談活動への対応についても話し合われました。

 現在、真備町では、被災者(最大時約8200名)は、避難所から9月8日に50戸の仮設住宅の入居開始を皮切りに、次々と仮設住宅およびみなし仮設住宅に移って生活されています。また、リフォームを断念して空き家を放置した被災住宅も目立ちます。幹線道路沿いの店舗についても、大資本系列を除いて、再営業を断念または補修工事が遅れている店舗が多く、人の姿が減っている印象で真備町の人口減が懸念されます。そういったなかで、地元の施工会社は、被災建物のリフォーム工事に追われていて、仕事が手一杯の状況です。

 小田川堤防決壊については、高梁川からの逆流(バックウォーター現象)、ダムの管理(高梁川上流の河本ダムの異常放水)、河川敷が樹木や草で覆われていた、防潮堰の滞留砂の管理など複数の要因が上げられていますが、有識者で今回の原因を究明し、早期の対策が望まれます(小田川と高梁川の合流点を下流に移す計画は2028年完成予定)。

(岡山支部・赤澤輝彦)


 奈良支部 ― 葛城の歴史と町並みを訪ねるハイキング

  日時:2018年11月25日(日)  

  場所:奈良盆地 葛城の歴史と町並み

  参加:10名

 

 奈良の古道(下ツ道、太子道……)散策シリーズは、今回の葛城の道で7回目の企画になります。

 

 

 川本さん(前新建全国事務局長)の地元でもある「葛城の歴史と町並みを訪ねるハイキング」を企画していただきました。御所市は奈良盆地の南に位置し、葛城と河内にまたがる金剛・葛城の山々麓に広がる長閑な田園都市です。また、神々の里として天孫降臨を初めとする数々の神話の舞台でもある歴史ある町であります。

 出発は、近鉄御所駅に8時50分に集合、総勢10名(奈良支部会員7名、大阪支部1名、会員の友人2名)の参加で駅前からコミュニティーバスに乗り込み、九品寺(千体石仏で有名)に到着、以降は徒歩での散策、高丘宮跡、一ひとことぬし言主神社、長柄神社、名柄の町並み、南郷、高天彦神社、菩提寺、葛城の歴史文化館(吉田桂二氏設計)、高鴨神社(鴨族の氏神で上賀茂、下賀茂神社の本家にあたる)、かもきみの湯(親睦会会場)をめぐる約9時間のコースでした。

 今回の散策では、奈良盆地を南側から初めて眺める景色で、集落の下に広く点在する棚田とその先に見える奈良盆地の景色は悠久の時を感じることができ、また急峻な金剛山の森を背景に神社が点在し、古代の人々が往来した古道は草深い山道で、村々は独立し集落を形勢したように思われました。

 途中、旧名柄の集落では大正2年(1913年)に完成した旧名柄郵便局を見学、外観・内観も当時のまま生かし、カフェとして地域に親しまれていることに、自身長く郵便局の設計に携わってきこともあって、興味深く見ることができました。当時の郵便局業務は郵便・貯金・保険業務のほかに電信・電話のサービスを提供する、地域コミュニティの中心的な施設です。窓口事務室は郵便の配達区分(郵便局員が配達するための道順組み立て)、差し立て業務(お預かりした郵便を方面別に区分する業務)が行われ、窓口事務室とは区分棚で仕切られていましたが今はオープンスペースで、発着台(荷受場)の広い開口部は開放的なガラス窓で外の景色を取り込んだ落ちついた空間に演出されていました。

 昼食は南郷住吉神社の近くにある川本さんの友人がお一人で営業している南郷庵で、全七種類のフルコースのそば料理を堪能、午後は村から村に移動するたびに深い谷を越え、高天彦神社、菩提寺を散策し、やっとの思いで葛城の道歴史文化館に到着、同館は新建会員でもあった故吉田桂二氏の設計です。残念ながら営業時間が過ぎ閉館されていたので内部を見学できませんでしたが、一階部分の朱塗りの壁と二階部分の白壁との対比が周りの木々と調和した落ちつた佇まいの建物でした。仕上げは、かもきみの湯の懇親会で散策の疲れを癒し、今後の奈良支部の企画について話し合うことができ、充実した一日を過ごすことができました。

(奈良支部・乾安一郎)

 

 普段車での移動が多いにも関わらず、この日はなんと近鉄御所駅に8時50分集合でした。何時に最寄りの駅を出発したらいいのか、そもそもどうやったら御所駅にたどり着くのか……おやつも買って行こうか……と思いながら、ろくな下調べ・準備もせず当日の朝を迎えました。かなり不安でしたが無事集合・出発できました。そしてバスも利用しましたが、合計だいたい十数㎞を完歩できました。好天に恵まれたハイキング日和で、ところどころ巨木が残る歴史のある町並みを気持ちよく散策できました。太古のまちにタイムスリップしたかのように想像しながら歩くのはワクワクするものです。

 お昼はお蕎麦をいただきました。手打ち蕎麦・石窯パン工房の「南郷庵」というところで、予約のみのお店で蕎麦のフルコースです。そばスープから始まり、野菜おやき、そば寿司、そばがき、ひじき御飯……そして盛そば!この盛そばが本当に美味しかったです。最後はそばようかんをいただき、このフルコースでなんと1500円!柴犬のコロちゃんもお出迎えの素敵なお店でした。ぜひまたリピートしたいなと思いました。

 午後からは午前ののんびりと打って変わってサバイバルな感じでした。山道を行ったり沢を渡ったり、きつい登りがあったりフェンスに行く手を阻まれた

り……しかし佐伯さんのファインプレイで入り口が見つかりやれやれでした(笑)。

 最後はかもきみの湯で懇親会があり、いろいろな歓談が繰り広げられました。……とここまでは予定通りスケジュールをこなすことができましたが、帰りのJR御所駅に着いたらなんと1時間も電車が来ない!恐るべし御所の旅は、家に帰りつくまで波乱が続きました。

(奈良支部・木原彰宏)

 

11月25日9時。快晴の近鉄御所駅に集合。定期バスで九品寺近くまで。あとは天孫降臨の高天原をまさにハイキング。前新建事務局長・現御所市議の川本氏の丁寧な案内で一言主神社、長柄の町並み、南郷(昼食・そば会席)橋本院、高天彦神社、菩提寺、高鴨神社、そして懇親会場(かもきみの湯へ、陽がとっぷり暮れるまで73歳の足腰に「愉しい苦行」が続く。思えばボクの学生時代、寺社仏閣にデートでよく訪れたものだ。そこで得られる静寂に身を置く安らぎは半世紀経った今も変わらない。この間ご無沙汰したのは常民のための建築を志向したからか。典型的シンボリックアーキテクチュアの寺社仏閣から実践技術はなにも学べないか。おもしろかったのは、重要文化財である高鴨神社の本殿を隠すように、その前面に10年前に新築された社殿の容姿だった。仕上げ材まですべて白木。厚板がかすかにムクった屋根材まであまり見かけないモノだが美しい。(写真)なによりも絶対的権威の前面を犯す非難を恐れていない気骨・技術者魂を静かに感じ取ることができたのである。

(大阪支部・伴年晶)

[建まち誌未掲載]

 今回の企画は、この葛城の歴史と町並みを訪ねるもの。11月25日、8時50分に近鉄御所駅集合。10名が参加した。

 5世紀頃の奈良盆地は、東側の三輪一族と西側の葛城一族の二豪族が勢力をふるっていた。三輪一族が第10代の崇神天皇に始まる大和朝廷を興したとされる一方、葛城一族は大和朝廷が成立する以前に葛城王朝を築いていた。そして、金剛山麓の高天地域は神々が住まわれていた高天原の地として、今日に伝えられている。今回の企画は、この葛城の歴史と町並みを訪ねるもの。11月25日、8時50分に近鉄御所駅集合。10名が参加した。最初は葛城山麓をバスで九品寺へ。九品寺は、奈良時代に行基が開いたという名刹で裏山に千体石仏がある。これは南北朝時代に、南朝方についた楢原氏の兵士の身代わりとして奉納されたものだという。ここでしばらく時間を費やした後、山裾を南に歩を進める。程なく第2代綏靖天皇の皇居と伝えられている「高丘宮跡」の碑に遭遇するが、歴史的な根拠は乏しい。今は人気もない山林とわずかに耕作をしている小さな水田しか残っていない。10件足らずの民家をすぎると一言主(ひとことぬし)神社に到着。一言ならば願いを聞いてくれるという一言主神社の祭神は古事記や日本書紀に出てくる事代主命(ことしろぬしのみこと)で、雄略天皇が葛城山で狩をした時に現れた神様。境内には樹齢1200年以上と言われる銀杏の木(写真1)がある。松尾芭蕉の句碑も残されている。少し東に歩を進めると石造りの鳥居が現れる。ちょうど参道を逆に進んできたことになる。人家が増え、森脇の集落に到着。大きな住宅とケヤキの大木が訪れる人を圧倒する。さらに南に進むと、名柄に着く。名柄は金剛山麓を南北に走る名柄街道と大阪に続く東西の水越街道の交わった集落で江戸時代には宿場町として栄えた。ここも古い民家が軒を連ねている。なかでもひときわ大きな大和棟の本家と楠とケヤキの大木のある家(写真2)があった。昔の庄屋であったが今は空き家になっている。少し街道から外れて東に進むと長柄神社(写真3)がある。日本書紀には天武天皇が境内で流鏑馬をしたと記されている。ここにも大きなケヤキの大木があり、本殿は一間春日造りで室町時代に建てられた。本殿の庇裏には泥絵の具で龍が描かれていて、どこから見てもこちらを睨んでいる八方睨みの龍というらしい。街道にもどって少し南に進むと1902年に開所した旧名柄郵便局がある。ここは2015年にリノベーションされ、カフェと資料館として再生した。中にはいると当時の郵便運搬用の人力車や公衆電話が展示されていた。さらに街道を南に進むと中村家住宅(写真4)がある。この建物は、もとは代官屋敷で慶長年間(1596年~1615年)に建てられた。桁行22.1m、梁間11.2m、切妻造段違、本瓦葺きで国指定の重要文化財になっている。何年か前に訪れた時は中に入れたのだが、今は固く門を閉ざしたままになっている。広く国民に公開してこそ価値があると思うのだが。さて、12時に南郷庵で「そば会席」を予約しているので、少し急ぐ必要がありそうだ。佐田、井戸という集落を急ぎ足で通り抜ける。南郷集落に着くと、急に視界が広がる。遠くは奈良市から天理市、桜井市へと続く大和青垣といわれる奈良盆地の反対側の山々、そこからその裾野に広がる家々や木々、畝傍山、耳成山、香具山の大和三山、近くは御所の街々や田園風景(写真5)。午前中の行程終了にふさわしい風景を満喫したあと、そば会席をいただく。ところで、南郷地域は最近の発掘調査によって、5世紀に日本列島最大規模の集落があったことが判ってきた。東西1.4km、南北1.7km、面積2.4km2の極楽寺ヒビキ遺跡を含む南郷遺跡群である。王の高殿をはじめ王の祭殿、渡来人の家や工房、倉庫群跡が出土した。朝鮮半島の百済と伽耶地方との深い関わりがあったことも判明した。今は田圃の下に埋もれ、何のしるべも案内表示もないが、古代の文化遺跡として一般の観光客にもきちんと知らせることが必要だ。さて、午後からは南郷から橋本院まで結構きびしい登山をすることになった。日頃はめったに歩いて訪れることはなく、車で舗装された別の道を行って、上から降りてくるという順路だが、今回はそうはいかない。日頃の運動不足が実感される。息も絶え絶えに、なんとか橋本院に到着。橋本院は養老年間(717年~724年)に行基が開いた高天寺の一子院で、もとは奈良興福寺に所属していたが、その後、高野山金剛峰寺に属し、真言宗の開祖である弘法大師を祀っている。南北朝時代には、南朝側について戦ったが、高天千坊の僧兵を失い、堂塔が焼き払われたという。今は本堂と庫裡などわずかな建物がひっそりと残っているだけで、境内には皇帝ダリアが咲いていた。橋本院を後にして、少し山側に進むと高天の集落に着く。このあたりが古事記の「天地(あめつち)のはじめ」に登場する神々の生まれる場所、高天原である。さらに少し南に進むと高天彦神社(写真6)に到着する。この神社は、葛城王朝を築いた葛城一族の祖神を祀る。何年か前に境内のケヤキに落雷があって、その倒壊で本殿の屋根が破損し、その後修復するも瓦が不揃いなままになっている。そこから時間短縮のために、森林の中の道無き道を下り、菩提寺に到着。菩提寺もまた奈良時代に行基が建てた菩提院跡地にある寺で、かつては「伏見千坊」と言われ、約40カ所の寺院があったが、南北朝時代に焼き払われた。今は、仁王門と本堂だけになっている。このあたりからの眺望もすばらしい。南郷から望む時とはちがって、吉野連山がよく見える。近畿の屋根といわれる山また山の大パノラマが広がる。さて、あとは下るだけの行程と足取りも軽く進んでいると、伏見八幡神社の横を通った。そこは登り口で上に階段が何百と続いている。もとより見学コースにも入っていなかったのだが、案内板をみて、誰かが「もう二度と来ることがないかもしれない」といったとたん、新建魂に火がついたか、急遽、参拝することになった。行ってみると結構立派な三間社流造りの神社(写真7)で応神天皇を祭神としているという。がんばってきた甲斐があったというものだ。参拝のあとは伏見の集落を下っていく。ここは家々の石垣がすばらしい。しばらく歩くと県道30号線(通称、山麓線)にでた。ここからこの県道を下っていくと、懇親会場でもある「かもきみの湯」に到着する、予約時間もいい感じ。秋の頃とて日が短くなっていることもあり、このまま「かもきみの湯」に行くか、それとも右に曲がって高鴨神社に行くか聞いたところ、誰もが右に行くという。新建魂の貫徹でまたもや遠回りをすることになった。しばらく歩くと葛城の道歴史文化館に到着。ここは1986年に開館したが、設計は今は亡きあの吉田桂二さん。周辺にマッチした上品な建物で中も案内したかったが、開館は4時までということで既に閉まっていた。隣接の高鴨神社(写真8)を参拝。高鴨神社は全国の鴨(加茂)社の総本宮で弥生中期から祭祀を行う日本最古の神社の一つ。鴨族は稲作、製鉄、薬学、馬術などに優れた技術をもち、各地にその技術を伝えたという。京都の上賀茂神社、下鴨神社の本家にあたる神社で、社殿は国の重要文化財に指定されている。本殿は、室町時代に造られ、三間社流造りで檜皮葺、唐破風付き。拝殿は最近建て替えを行っていて、柱はもちろん屋根まですべて桧で造られている。

 ここから「かもきみの湯」までもと来た道を戻るのでは時間がかかるし、思い切って畦道を歩くコースを選択したが、途中から道がなくなって、それこそ道無き道を歩く結果になった。方向は間違いないが、だんだん暗くなってくるし、参加された皆さんにはたいへんな思いをさせてしまった。訪問地を少し欲張りすぎたか、目的地の「かもきみの湯」に着いたときには予定より一時間ほど遅くなっていた。それでも、楽しい懇親会とあたたかい湯に身も心も癒された。

(新建奈良支部・川本雅樹)


全国企画 ― 「災害対策全国交流集会inいわて」

  日時:2018年11月11日(土) ~12日(日)  

  場所:岩手県大槌町

  参加:180人(新建からは8名)

 

 11月11~12日岩手県大槌町にて20都道府県180人の参加で災害対策全国交流集会が開かれ 新建からは8名参加(中島明子・三浦史郎・渡辺政利・小笠原浩次・杉山昇・千代崎一夫・山下千佳・新井隆夫)。

 冒頭挨拶で川田善和代表世話人が東日本大震災、その後の各地の災害を振り返り現状、問題点を報告しました。主な要旨として●東日本大震災被災者:5万6千人がいまだ避難生活●熊本地震:3万8千人が仮設で生活● 災害関連死:直接死の120%(福島)、400%(熊本)と、いかに被災後の救援、支援体制がひどい状態であるかを物語っている。●復興予算:東日本大震災5年間で25兆円(被災者支援へはたったの2兆1千億円8%にすぎない)、福島原発の事故処理21兆円を税金、電気料金でまかなおうとしている。

 それぞれを見ても、国民一人一人への支援の少なさと冷たい政治の現状は酷すぎます。

 

二日間の交流集会の主な内容

 一日目:被災地からの報告。

今年も大規模災害多発の年でしたが、その中から①7月豪雨災害を広島、岡山の災対連から、北海道胆振東部地震を北海道民医連からそれぞれ報告されました。各被害の深刻さとその後の救援活動など、それぞれ災対連の加入組織の活動ぶりが詳しく報告されました。

②基調講演は斎藤徳美岩手大学名誉教授(県の復興委員会の総合企画委員長)が「東日本大震災から8年目を迎える今を考える」をテーマに行いました。岩手県は被災者救援が比較的上手くいった県ですが、震災前から高齢者、障害者への施策があったからこそ震災後の支援も他県よりできたとのこと(災者の医療保険自己負担分を免除などを続けた)。「岩手県から学ぶ」が今回の交流集会の副題でもあり、復興計画の当事者からの話には説得力がありました。

二日目:各分科会開催

5分科会のなかで、私たち新建メンバーは第3分科会「被災者の住まい、まちづくりを考える」に参加し4名が報告。報告後質疑応答、討論をしました。

 

各報告者

①高木さん(大槌町在住の被災者)から、間一髪で命が助かった体験、家族8人が無事だったのは、家族でいつも「津波が来たら単独で高台に逃げる」と話し合っていたからとのこと。長い仮設住宅暮らしで狭さや、寒さ対策の不備、プライバシーが守れぬなど、プレハブ仮設の問題点を多く指摘された。また避難所、仮設住宅、復興住宅への転居を繰り返すなかで、コミュニティーが壊れていったことが寂しく残念と報告。

②三浦さんからは、東松島市あおい地区の復興街づくりの経過と現在を報告。住民、行政コンサル(三浦・杉山)とが信頼関係を築き上げることでうまくいった。ハードよりソフトを重視し、コミュニティー再構築をはかった。コーポラティブ方式で区画選びも抽選でなく話し合いで行うなど、粘り強くやってきた。行政も協力して、住民も聞く耳を持ち、各者がイベントや情報共有で協力関係を構築していった。あおい地区は駅に近く人気の町に育っている。

③中島明子さんからは、女性・障害者・高齢者に配慮した仮設を実践した例を報告。

 バリアフリー、仮設のグループホームを今後標準化すべき(これからの超高齢社会では特に)。避難所、仮設住宅の性暴力も深刻であり、女性リーダーの養成をして女性の管理人を置くなどすることが重要。被災者も女性管理者なら相談しやすいことも多いので。④山下千佳さんから、イタリアでは被災直後から国主導で厚い支援がされていることを報告。その日のうちに家族単位の居住と簡易ベッド、水洗トイレ、シャワー設備などが用意され、温かい食事も届く。日本の被災者は大変過酷な状況に置かれている。

 今回は11/10には大槌町にて「そら土間の家」2棟目や被災地の現況を見学視察。

 交流集会終了後の11/11~12も参加メンバーごとに東松島~石巻を訪問し、旧知となった現地の方々宅を訪問するなどしてきました。東北通いも長くなり、被災地支援のなかで「あそこに行くとあの人たちに会える」という関係ができていることもうれしいことです。

(群馬支部・新井隆夫)

「東京地方自治研究集会」2つの分科会を中心に参加