東日本大震災から10年

防災・被災地支援

 2011年3月11日14時46分 宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする東北地方太平洋沖で発生、地震の規模はマグニチュード 9.0で日本周辺における観測史上最大の地震でした。

 10年を目前にした2月13日23時7分、福島沖を震源としてマグニチュード7.3、宮城県と福島県で最大深度6強を観測しました。東京でも震度4となり、東日本大震災を忘れてはならないという警告のような余震でした。

 板橋では2月11日に「第47回住みよい板橋をつくる区民と勤労者のつどい(区民研)」の全体企画として「東日本大震災メモリアル―忘れない思いを安全につなげよう!」を開催しました。区民研の歴史は長く、毎年2月11日に開催し、全体会と分野別分科会を板橋区の施設をほぼ全館借り切って行っていました。コロナ禍で当日はオンライン開催と会場では事前に準備したビデオ上映というスタイルになりました。
    初めに昨年11月「災害対策全国交流集会2020」の録画、「コロナ禍の複合災害 避難所の雑魚寝は最悪― 避難所でのTKBの確保を ―」榛沢和彦さん(新潟大学特任教授・災害避難所学会前理事長)の講演を上映しました。参加者から「科学的なデータ、資料による説得力のある内容で、目からうろこでした。いかに避難所のベッドが大切かということが分かりました。第二次大戦下のイギリスの防空壕(地下鉄ホーム)での肺塞栓死への素早い、イギリス政府の対応には驚きです。国民を守るのが政府の役割との認識が明確にあるのでしょう。 T・トイレ K・キッチン B・ベッド 段ボールベッド H=300でも、血栓防止に有効の大切さを学びました。」などが寄せられました。
    続いて、東日本大震災を映像で振り返ると題して、千代崎一夫さんが100枚以上に及ぶ写真をプレゼンしながら、被災直後から復興過程も含めて紹介しました。改めて、被害の大きさを実感した報告でした。
     被災地の様子を見た後に、「被災地からの報告-東日本大震災から10年、これからの課題―」を高橋正行さん(宮城高教組委員長/宮城県労連議長)にお話ししていただきました。「東日本大震災から10年、津波が押し寄せた海岸線に延々と続く万里の長城のような防潮堤、嵩上げされた上を走る真新しい道。震災前、集落だった場所は広々とした公園に大変身。決して元通りにはならない新たな風景に10年の歳月を感じさせます。一方、被災した沢山の人々は元通りの生活に戻ることを夢見て60代の人は70代に、70代の人は80代になりました。しかし、元通りの生活を取り戻せた人はどれだけいるのでしょう。10年続いた仮設住宅の中で昔の生活を夢見ながら亡くなっていった人々、復興公営住宅で一人寂しく暮らす人、『いつ、お迎えがくるのかしら』と呟きながら毎日を送る人々。この10年は誰のための復興だったのかと思わずにはいられません。」涙ぐみ、胸をつまらせながら話す高橋さんの言葉に被災された方のつらさが伝わってきました。被災地の現状として①沿岸被災地で進む人口減少 ②災害公営住宅における新たなコミュニティづくりの難しさ ③強まる被災者の三つ「健康」「将来の家賃」「収入」の不安 ④災害援護資金貸付の返済という困難 ⑤制度の隙間で取り残される被災者、⑥住宅被災者問題・仙台パワーステーション(火力発電)・女川原発再稼働を許さない・「創造的復興」との闘い、
    そして宮城県と岩手県では震災後の復旧・復興の考え方(コンセプト)が全く違い、宮城県は「創造的復興」を掲げ、「地球規模で考え、日本の発展も視野に入れた計画」を振りかざし復興事業を進め、岩手県は「いのちを守り 海と大地と共に生きる ふるさと岩手・三陸の創造」を目指し「被災者に寄り添った復興」を行ったことなども報告されました。最後に「被災した人々を励まし、様々な相談活動を行ってきた『炊き出し相談会』は63回にのぼり、この相談会を通し被災者の悩み、苦しみ、悲しみに寄り添い、要求をねりあげ運動を展開してきたこと、課題は大きく、いまだ道半ばの状態でも、この10年でさまざまなことを経験し、多くの教訓を得ることもできた。」と締めくくられました。

 全体会の最後は、支援活動の報告と教訓として4団体の発表がありました。新建災害復興支援会議と全国災対連の活動を私が写真を使って発表しました。「サポートイン仙台」や炊き出し何でも相談会の参加、ブロック会議開催、建まちセミナーなどは懐かしくもありました。また災害の多さを感じ、今後の災害に対して気持ちを引き締めて、私たちにできることと求められていることを見直す時と思いました。
新建災害復興支援会議事務局次長 山下千佳

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