震災と過疎-石巻・雄勝町の今(上)ベッドタウン/住居の移転、抵抗薄く/経済拠点、町内になし
【河北新報120315】硯(すずり)や法印神楽で知られる石巻市雄勝町地区。東日本大震災をきっかけに、過疎化が急激に進む。人口は震災前と比べ7割減の1300人となり、多くの住民が古里に戻るかどうか決めかねている。海辺の町は、再びにぎわいを取り戻せるのか。過疎の背景と、進まぬ復興の現状を探った。(石巻総局・土屋聡史)
「本当にいい町だったんだよ。いざ離れるとなると、つらいね」。雄勝町地区の中心部。がれきの仮置き場となった自宅跡で、藤本忠夫さん(52)はつぶやいた。
自然豊かで伝統芸能も盛ん。生まれ育ったこの地区が大好きだった。父親は旧雄勝町長。自身も1995年、35歳の若さで町議になった。地域の魅力を発信し、交流人口を増やそうと必死だった。
あの日-昨年3月11日、津波が古里をのみ込んだ。全家屋の9割が被災した。藤本さんが経営していた運送会社の社屋と自宅も波にさらわれた。
1週間後、石巻市内陸部に家を借りた。実質的な本社だった石巻工業港近くの営業所までの通勤時間は、1時間から20分弱に縮まった。家族は通院や買い物が便利になった今の生活に慣れつつある。
近く市内の別の場所に本社を移し、内陸部に家を建てる。地域づくりを引っ張った立場として、やりきれなさも込み上げる。「でも、便利さ
には勝てない」
市雄勝総合支所は昨年10~11月、被災した地区の約1200世帯を対象に住まいに関する意向調査(回収率63%)を行った。「雄勝に住みたい」と答えたのは344世帯で回答者の46%。被災世帯全体でみると3割以下にとどまった。
地元に残る住民が少ないのは、その多くが震災前から地区外の職場や高校に通勤、通学し、地区が「ベッドタウン」になっていた事情が背景にあるとみる関係者が多い。
2010年の統計では、地区の就業者数は町に大型事業所がないサービス業や小売業、製造業が半数を占める。長い間、基幹産業とされていた漁業の倍近い。
国が1999年に実施した消費購買動向調査をみても、消費者吸引率はわずか3.9%。旧石巻市での買い物が9割を超え、経済活動の軸足は地区外に移っていた。
平地が少なく地区内に建てられた仮設住宅は161戸。多くの被災者は地区外の仮設住宅や借り上げ住宅に住む。若者や働き盛りの年代を中心に、生活拠点を地区外に移すことへの抵抗感はさらに薄れた。
地区の老舗が一つ消えた。創業120年のマルタカ製菓。店は津波で流された。5代目の佐藤成利さん(44)は昨年7月、千葉県八街市に家族7人で転居、親類の支援を得て同県内に菓子店2店を開いた。
「千葉に根を張る。ここには、作った菓子をおいしいと言ってくれるお客さんがいる」
店の様子を通じ地域経済の移り変わりを肌で感じた。地区を潤したカツオ漁の船員は沖に出る際、決まって大量のかりんとうを買い込んだ。
遠洋漁業の衰退が始まる1970年代末から、客は減りだした。店を継いだ90年以降も売り上げは低迷し続け、廃業を何度も考えた。雄勝を出ようとする自分の背中を震災が最後に押した。
「見知らぬ土地での開業より、地元にとどまる方が不安だった。古里への愛情だけでは食べていけない」
60年代に1万人を超えていた地区の人口は震災直前、4300人に減った。震災後の人口は実際には1000人を切ったとみる住民もいる。未曽有の震災は、過去にない速度で地区の過疎を推し進めようとしている。
[旧雄勝町]1941年の町制施行で、雄勝町となった。2005年に石巻市、河北、河南、桃生、牡鹿、北上5町と対等合併。雄勝硯(すずり)は震災前、日本一の生産量を誇った。「雄勝法印神楽」は国の重要無形民俗文化財。ユズリハなど暖地性植物が生い茂る八景島は国の天然記念物に指定されている。