【朝日新聞110910】建物を、街を、根こそぎ奪っていった東日本大震災からまもなく半年。建物や街をデザインしてきた建築家たちも、数多く被災地に入り、活動を続けている。かつて建築家からは、あまたの理想都市や未来都市の計画が生まれてきたが、今回はずっと小さく、足元を見据えて活動する姿が目立っている。
■帰心の会 集いの場、まず着手
伊東豊雄(70)、山本理顕(66)、内藤廣(61)、隈研吾(57)、妹島和世(54)。日本を代表し国際的にも知られた5人の建築家は、震災直後に震災を考え行動する会を結成した。名前の頭文字を並べた「KISYN」にもちなみ、「帰心の会」と命名
した。
ブラジリアやキャンベラといった新首都は建築家が設計し、日本でも丹下健三は広島の復興計画に参画、高度経済成長期には多くの建築家が、未来都市像を描いた。帰心の会のメンバーも内外で大規模建築を手がけているが、伊東は「いま大計画を唱えたら、だから建築家はのんきだと言われる。自分の建築思想をゼロから考え直さないと」と話す。
「建築の原点は人の集まる場所」と思い定め、「復興には何年もかかるが、まず、すぐにできて被災した人が気楽に集まり安らげる『みんなの家』を造ろう」と考えたという。
仕事で縁のある熊本県が木材を提供、仙台市内の仮設住宅の敷地の中に、10坪ほどの「家」を建てることに。仮設に暮らす人々から意見を聞き、これまで手がけてきたような透明感のある家ではなく、つつましい木造切り妻を採用。土間には薪ストーブも置く。
「もう少し建築家らしいデザインをしては、とも言われたが、被災したお年寄りには提案できないし、ここから始めたかった」と伊東。13日に起工式がある。
伊東は、岩手県釜石市の復興計画のアドバイス役も務めている。山本も岩手県で活動。仮設住宅の入り口を向き合うように建てて、人々の交流が生まれるように提案し、実現。妹島は宮城県東松島市の街づくりの手助けをしている。山本と妹島も、「みんなの家」を
計画している。
隈の活動は異色で、募金を基にがれきを樹脂で固めた小建築「ガレキミュージアム」を計画中。がれきを使った作品を展示し、人々が交流できる場を目指す。被災地内での移動も検討している。
帰心の会以外でも、宮城県女川町で貨物コンテナを活用した2~3階建て仮設住宅が建設中の坂茂(54)ら、著名な建築家たちが被災地で活動している。
隈とともに5人が集まることを提唱した内藤は「建築家は行政側の人間と見られがちだが、今は行政の側か、住民の側かが厳しく問われる。被災地で建築家が活動するためには、信頼関係を築くことが重要だ」と話している。
■若手・中堅 住民の悩み聞く
中堅、若手の建築家たちも被災地で動いている。中心となっているのが、全国の建築家による復興支援のためのネットワーク「アーキエイド」。7月には最大の活動として宮城県石巻市の牡鹿半島で「サマーキャンプ」を行った。
東京芸術大准教授で東北大でも教えるヨコミゾマコト(49)と学生が雄勝半島で実施した調査を先行事例に、全国15大学の学生約100人が教官の建築家らとともに、複雑に入り組む半島の30の浜で現状を調べ、住民の声を聞き、復興への提案をするというものだ。
例えば横浜国立大教授の小嶋一浩(52)のチームは、集落の模型を作り住民から意見を募った。防潮堤の配置や経済的な不安など専門外の指摘も含まれていたが、小嶋は耳を傾ける。「個人住宅の設計では、家族の愚痴を聞くようなもの。建築家の仕事には元々、悩み相談の側面があるんです」
アーキエイド実行委員を東北工業大講師の福屋粧子(40)らとともに務める建築計画学の小野田泰明・東北大教授は「土木や都市計画と仕事が分かれ、建築家名で大計画ができる時代ではない。計画に質や文化性を加え、命を吹き込むのが建築家。環境を読み人々と対話する力を使わない手はない」と指摘。筑波大准教授の貝島桃代(42)も現地で「建築家とは、人間のための場所を作る人」と話した。
調査結果と提案は石巻市に手渡された。星雅俊・同市復興対策室長は「住民の声が反映され、十分に参考になります。事業化が可能か調査をしています」と話す。
現地で、小嶋は「雨露をしのぐ場所から進化してきた建築が、この状況で何ができるのかを絶対に考えないといけない。逃げたら終わりです」と話した。震災が、建築家たちに原点を見つめ直させている。(編集委員・大西若人)